第2話 ἐξορκισμός


当時の私の記憶は定かではない。

処どころ抜け落ちて、そして歪に改竄

されている。

 でもそれに気が付いたのはもっと

ずっと後になってからだった。




屋敷の庭から幼い子の泣き叫ぶ声が

聞こえて、それが偶か誰かの耳に

入ったのだろう。

 慌てふためく使用人達に抱えられて

屋敷の中へと連れ戻されたのは何となく

想像がついた。



いつもならば森閑ととした屋敷の中は

俄に喧騒で塗り替えられて行く。




周りの人達は、変わるがわる私に

あれこれ尋ねては、誰もが同様に酷く

打ち拉がれた顔をする。中でも母の

反応は凄まじかった。


この時、私は初めて母が 感情 を

露わにするのを目にしたのだと思う。

それは幼い私の心を翻弄するのには

充分だったろう。




「早く!お寺の御住職様をお呼びして!

念の為、聖護教会の神父様にも連絡を!

雪江は、奥の間へ!」

 母の震えを帯びた声は屋敷中に響き、

只それだけは 記憶 というよりも

私の耳に直に残った。



「嗚呼…何ということ…!お祖母様!

あの子が魅入られてしまいました!

このままでは、いずれ 取られ て

仕舞います! あゝお祖母様…。

 私は、どうしたら良いのです!」


絶叫に近い母の声は、泣いて昂った

私の神経を更に逆撫でするものだった。




それからの事はあまり覚えていない。


 只、断片的に。




バタバタと騒がしい屋敷の中の、最も

昏い『奥の間』に連れて行かれて。

 使用人達の表情は皆一様に青褪めて、

それでも何かを口々に。


否、見た事のない人達が。


彼等は口々に私に何かを問いかける。

意味はわからなかった。抑揚をもった

読経のような祈祷のような。



岾のお寺の住職様が、そっと私の頭を

撫でてくれたが、その感触に 安堵 は

少しもなかった。



奥の間には線香が焚かれ、強い匂いに

         眩暈がした。



仄暗い部屋の中で薄ぼんやりとした

  燈明が茫と灯る。




「…御住職様、何とかなりませんか!」

「八重様の首は、もうこちらでお預かり

せねばならんでしょう。」「そんな!」

「もう既に 印 が為されては、寧ろ

逆効果です。」

「では、私が…!」「桐枝さま!それは

決してならぬ相談ですぞ。」



「…奥様!大変で御座います。神父様の

お車が事故に!こちらに向かわれる途中

崖から転落されたと!」「あ…嗚呼。」

「何と…。アレはもっとずっと旧い

時代から存在し続けておるもの。我々の

想像の範疇にはないのです。基督教会は

逆に憎悪と軽蔑を齎すだけでしょう。」



「私のせいです。」


母の、毅然とした声が。




線香の匂いが、益々濃厚になって

 私の全身を覆い尽くして行く。



あの昏い影の様な男は一体、何なのか。


余程に恐しい者なのだろうか。私には

単に意地の悪いものでしかなかった。

あの、曽祖母さまに頂いた大切な

手鞠を返してくれさえすれば、私は

それで良かった。


あの赫い絹糸を幾重にも巻いた


       美しい手鞠。





「…私には出来なかった。お祖母様の

お通夜の晩に…あれ程、お祖母様から

強く言い付けられていたのに、私は!」



打ち拉がれた様な、母の声がした。


読経の合間に、何故だか私の耳に酷く

曖昧な音として飛び込んで来たのだ。

 母が一体、何を悔いているのかは

解らない。けれども、母の口から溢れ

出る音達は、まるでこの世の全てを

呪う様な、それでいて諦めたような。



「もう、折り合う他には有りません。

我々一族はいずれ滅ぶ運命を辿る。

せめて、あの子だけは私が。

 御住職にはご迷惑をお掛けして、

本当に申し訳なく思います。今後も

一族の供養を…何卒、宜しくお頼み

申します。」

「それが本来の寺の役割です。何ら

特別な事では御座いません。それより

路線の方は、着々と建設されている。

じきに『環』も閉じられるでしょう。

 それから、これは私の方から申し

入れる様な事ではないが…。」

「…承知しております。あの子に婿は

取らせぬ積もりです。私達の呪われた

一族は、あの子で最後です。」



私は、それを茫然として聞いていた。

幼いながらにも 禁忌 の言葉は

識っていた。だから私は。

 幼い私は絶望したのだろう。この

家に、そして母に。




 あの、私のお気に入りだった

         赫い手鞠 は。




 一体何処に行ってしまったのだろう。






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