心臓と宝石~薔薇焔の章~

@nepisco

第1話

 


 夢を見た。幼い頃の、大事な記憶の夢だった。


 あれは何歳の頃だったか。六歳か、七歳か。小学校に入る前だったと思う。

 僕は母さんに連れられ、知らない家に遊びに来ていた。と言っても楽しかったのは、近所のママ友たちとお喋りしていた母さんだけだ。僕は退屈していた。誰も話し相手がいなかった。相手のお家の子どもの相手をするために連れてこられたはずだったのに。

 ともかく、僕は退屈しのぎに知らないお家の探検をすることにした。家の中を勝手に歩くと怒られると思ったから、ぐるりと外壁を辿って裏に回り、雑木林を冒険していた。楽しかった。今思えばそんなに深い茂みじゃなかったはずだけど、小さな僕にはまるで絵本に出てくる森のように思えた。それだけ大きな敷地を持つ家だったのだろう。

「にゃあん」

 か細い声が頭の上から降ってくるのを耳にした。すぐに猫だとわかった。

 僕は周囲をうろうろしながら、自分よりずっと背の高い木を見上げ声の主を探した。

「あ。ねこ、みっけ!」

 猫は木の枝の上で縮こまって、親を呼んでいるようだった。僕の声を聞くとびくりと震えて、ますます縮こまってしまった。

 僕は木の枝を掴んで、幹の瘤に足を掛けた。思ったより、いける。するする登った。猫を目指して、二つに分かれた枝に尻を乗せ、両手を伸ばした。逃げる元気もなかった猫は、すんなり僕に捕まって、しがみつくように僕の胸に爪を立てた。

「いて、いてて」

 ふと気が付く。両手が埋まった僕は、どう帰れば良いのだろう。枝の上でバランスを取っているだけで精一杯だというのに。

 ふと下を見る。無造作に伸びた木は高く、飛び降りるには勇気が足りない。

 落ちたときのことを考え、ぞっと背筋に寒気が走る。……怖い。

「どうしよう」

 おかあさん、と声を上げるけれど、結構歩いてきたから多分、聞こえていない。

 どうしよう。

 目からぼたりと雫が垂れる。一筋零れれば、止めどなく涙が溢れた。怖かった。

「だれか……たすけて……」

 小さな子猫が両腕の中で不安げに鳴いていた。僕は子猫を抱き締める。

「だれかぁ……」

「だれかそこにいるの?」

 子どもの声がした。

 慌てて見下ろせば、お人形みたいな綺麗な子どもが木の傍に立っていた。

 金色の髪に真っ赤なワンピースが似合う、お上品そうな女の子だった。

 彼女は、僕を見上げて不思議そうに首を傾げている。

「たすけて。おりられなくなっちゃった」

「ふうん、どんくさ」

 笑って、それでも彼女は僕に向かって両手を広げた。

「ここにおいで」

「……つぶれちゃう!」

「大丈夫。こわいかもしれないけど、おいで。いち、にの、さん」

 彼女の声に合わせて枝から飛び降りた。すると、身体がふわりと浮いた心地がした。心地だけじゃない。目を開けると本当に、身体が宙に浮いているのがわかった。

 ゆっくり降りていく。猫も、僕の身体も。

「ほらね、大丈夫だったでしょう」

 僕の体はゆっくり降りて、彼女の両手に抱き留められた。細い両腕が僕の体を支え、割れ物みたいに地面に下ろす。体のサイズは僕と彼女とそう大きく変わらないのに。

「どうして? ……どうやってやったの?」

 彼女はくすりと含み笑いをした。

「魔法って、知ってる?」

 腕から子猫がすり抜けて、どこかへ走って消えていく。僕は追いかけない。

「まほー?」

「ここで魔法を見たことは、だれにもナイショだよ」

 そう言って彼女は、唇に指を添えて、シーッと囁いて笑った。

 どきり、心臓が高鳴る。

「ないしょ?」

「そう。二人だけのひみつ」

 悪戯っ子のような微笑みにぎゅうっと胸を押し潰されるような心地がした。

「……たすけてくれて、ありがとう」

 心臓がずっとうるさくて、顔や身体が熱くて、全然落ち着かない。

「どういたしまして」

 彼女の真っ赤な瞳が僕をまっすぐ見つめた。燃えそうだ。焼けてしまいそうだ。

「す、す……すきです!」

 僕は衝動のままに気持ちを吐いた。堪えきれなかった。

 ハートが溢れて転がって、零れ落ちていきそうだった。

「え? えっと」

 彼女は一瞬目を見開いて、きょとんと呆けた顔をした。僕をしげしげ眺める。

「しょうらい、大人になったらけっこんしてください!」

「……」

 彼女の顔に陰りが差した。彼女は寂しげに、僕に笑いかける。

「大人になってから、本当のわたしを見つけたときに、同じ言葉が言えたらいいよ」

 そう言って、僕のおでこにキスをした。

 

 あれから九年が経っている。


 それでも彼女のキスの感触をずっと覚えている。

 赤い瞳も金の髪も。彼女の表情も。胸がときめく感覚も、ずっと覚えている。

 目が覚めればそこは雑木林ではなく、僕の自宅の寝室だ。柔らかい布団に包まれて、ゆらゆらと微睡みに揺蕩っている。

 僕は体を起こして、遮光カーテンを開いた。白けた朝日が僕の顔を撫でる。

 小学生にもなってなかった小さな僕は、やっと今日から高校生になるのだ。

 伸びをして、両手でぱん、と頬を叩けば、頭がすっきり冴えていた。

 目指せ、彼女の王子様。

 僕こと常磐葉輝石は、朝日に向かって強い誓いを立てたのであった!







 


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