ロブスター号航海記
旗尾 鉄
プロローグ
意識が、沈んでいる感じがする。
谷底か、それとも海底か。
わからないけど、自分の身体の存在する場所よりも深いどこかに、意識だけが沈んでいる。そんな不思議な感覚だ。
いま、僕はたぶん眠っているんだと思う。気絶かもしれないけど。とにかく、意識がない状態で意識があるんだ。目を閉じていてなにも見えないし、音も聞こえない。皮膚の感覚もない。なんにもわからない。
しばらくそんな状態だった。やがて、意識がゆっくりと上昇しているような気がしてきた。意識が上へ上へと昇っていって、身体へと近づいている。そうしてついに、僕はあるひとつの『感覚』を得た。
くさい。
そう。くさい。
野生動物のような、すえた臭い。ペットの臭いを、何倍にも強くしたような臭い。手入れのいいかげんな動物園のような臭い。あるいは、生乾きの雑巾のような生臭い臭い。
そんな嫌な臭いが、ぷんぷんと漂っている。
悪臭にむりやり引っ張られるようにして、僕の意識は急速に覚醒していく。
次に感じたのは、顔に感じる熱だ。太陽の光だと、すぐにわかる。後頭部と背中には、じゃりじゃりした砂の感触がある。僕はどこか野外の砂地で、仰向けになっているらしい。まだ頭が
「ギャアッ、ギィ」
「ギギギィッ」
次に戻ってきたのは、聴覚だった。
僕のすぐ近くで、聞いたこともない耳障りな声でなにかが鳴いている。少なくとも、犬や猫や小鳥じゃない。もっと嫌な感じの声だ。
僕はもう、ほぼ目覚めていた。目を開ければ正体はわかるけど、知りたくない。においと声でわかる。なんだかこれ、絶対マズいことになってるよ。
僕は現実逃避することにして、そのまま寝たふりをしていた。だが、それも長くは続かない。なにか硬いもので、頭を小突かれはじめたのだ。
もうしょうがない。覚悟を決めて、目を開けた。
そこは砂浜だった。
僕の左手側、二十メートルほど先には、青い海が広がっている。けれど、海以上の問題が、僕のすぐ両脇に立っていた。
人間型のイキモノが二体、地面に横たわっている僕を左右から見下ろしていた。背は人間の小学生ぐらい。濃い緑色の肌に、ボロ布のような服を着て、木の棍棒を手にしている。これで僕を小突いたのだろう。意地悪そうな眼つきだ。小さな牙が二本、唇からはみ出している。
初めて見るけど、それがなんなのかはすぐにわかった。ゴブリンだ。
ファンタジー系のゲームや小説には必ずといっていいほど登場する、ザコモブ中のザコモブである。
起き上がろうとして起き上がれず、やっと気がついた。手足をロープで縛られている。ゲームの主人公が最初に倒すはずのゴブリンに、僕は情けなくも捕まってしまっている。つまりいまの僕は、ザコモブ以下の存在ってことだ。
だが、僕は慌てなかった。深呼吸して、もう一度目を閉じる。
僕は悪い夢を見ました。
僕は悪い夢を見ました。
僕は悪い夢を見ました。
北海道のばあちゃんに教わったおまじないを、心の中で三回唱えた。過去形にするのがポイントだ。そうすることで悪夢は過去になり、ぐっすり眠れるそうだ。
だいたい、ゴブリンが実在するはずがない。ファンタジーゲームもラノベの異世界転生も、あくまでフィクション。小学生でもあるまいし……。
「ギャウゲッ、ググ」
「ギーギーギャ」
叫び声とともに、腹のあたりを激痛が襲った。思わず目を開けると、ゴブリンが二人ががりで僕の腹やら足やらを棍棒で殴っている。
「痛い、やめろ、やめてくれ」
身動きできない僕はやっとの思いで体をねじり、腹を守ろうと横向きになった。だがゴブリンは僕が反抗したと思ったのか、殴るのをやめない。腹のかわりに、脇腹や腰を殴ってくる。
一方的に殴られ、痛みによって思い知らされた。これが夢じゃないことを。そして、こんなピンチにもかかわらず、小説のようなチート能力に目覚めることはないんだということを。
ひたすら痛さに耐えながら、僕は思った。
なんでこんなことになったんだ。
金曜日は、高校の入学式だった。今日は月曜日、僕の高校生活が始まるはずだったじゃないか。遅刻しないように早めの電車に乗って、それで……ものすごい音がして、ものすごい衝撃があって、そこで記憶が切れてる。
ということは、電車の事故に巻き込まれて、そのときに異世界転移したっていうのか。そんな。そんなことって……。
ゴブリンの一匹が、僕の髪をわしづかみにした。引きずってどこかへ連れていこうとしている。
「いやだ、誰か助けてくれっ」
叫んだ僕の脇腹に、棍棒が振り下ろされた。みぞおち近くに当たって、息が詰まる。声が出せない。
そのときだった。
僕の足の方向から、バレーボールくらいの黄色い光球が猛スピードで飛んできて、僕を殴っているゴブリンに命中した。そいつは五メートルほど弾き飛ばされて、動かなくなる。
それを見たもう一匹は僕の髪を離し、逃げようと背を向けた。だが逃げるよりも早く、今度はナイフが飛んできて、そいつの背中に突き刺さった。
「おおっ、命中っすよ。さすがっすねえ、ボス」
「おうよ。さすが俺様」
「あ、あの捕まってたやつ、動いてる。まだ生きてるぞ」
「あの服装は、たぶん『落ちたる者』だろうね」
数人の男女の声が近づいてくる。
助かった。
命の恩人が誰なのか確かめる間もなく、僕は安堵感のためにふたたび気を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます