その代わり安い食べもの

正式な名称は<イルテンホッポオ>だが、わたしたちはそれを<イル>と呼ぶ。


あまりに浸透しているので略称すら簡略されて、<食べもの>あるいは<それ>と呼ばれることもある。ある地域では言葉を発さない場合は<イル>のことを指す、という報告例まであった。


<イル>は大量にあって、日持ちもよく流通にも適していた。そしてとにかく安かった。


富める者にも貧しい者にも平等にいきわたり、人口爆発により食料危機をむかえたわたしたちにとってまさに救世主だった。多くの命がこの食べものによって救われた。


<イル>の見た目は“ふつう”といっていい。形も重さもほかの食べものと変わらず、色にも特徴がない。だが<イル>の特徴は加工にあった。<イル>はそのまま食べてもおいしいが、手を加えるとさらに味を増した。


火にかけるとほどよい弾力性を帯び、歯ごたえがよくなった。<イル>を噛む快感は格別で、飲みこまず長時間咀嚼する者が増えてガムは市場から姿を消した。


もちろん茹でても揚げても美味であり、どんな調理法でもおいしく変身する様は<ニンジャイル>と呼ばれ辞書にも載っているし、おなじ名前のアイドルグループがいたこともご存じだろう。


しかし<イル>の味つけについてはここで一言いっておく必要がある。やはり<イル>に合うのは<イル>なのだ。


<イル>は形状を変えると味も変わるという特徴を持っている。振動を加えると液状化し、ペーストでは濃い味に、さらに振動させ液体になるとさっぱりした味になった。


細かく刻むと薬味のような風味が出て、粉状するとスパイシーな味わいとなった。ザラザラの粉は塩気があり食欲を誘い、きめ細やかな粉はふくよかな甘さを出した。


調味料となった<イル>を<イル>にかけて食べたときの快感。わたしたちに食の喜びを教えてくれた<イル>には感謝しかない。


挽いた<イル>を手のひらサイズにこね、<イル>のソースをかけ、薄く切りでシャッキリとした<イル>を乗せ、ふんわり<イル>で挟む<イルバーガー>。


米粒サイズの<イル>を<液体イル>で炊き、<イル>の衣で揚げた<イル>を乗せ、甘辛の<イルソース>をかけて食べる<イル丼>。


世界中の食卓が、そして冷蔵庫の中が<イル>であふれた。あふれてもよかった。<イル>はほとどん腐敗しないので、冷蔵する必要はなく常温で長く放置しても問題なかった。


しかも<イル>はまったく低カロリーだった。食べても食べても太らない。私たちが望んだ理想の食べものだった。ほかの食べものよりもはるかにおいしく、安かった。


当然わたしたちは<イル>を食べた。一日三食、おやつにも夜食にも、食べる必要がないときにも<イル>を食べた。極度に液化すると無味無臭になるため水すら必要なくなった。


完全無欠の究極理想食。わたしたちは<イル>をそう称えた。


だけど<イル>にはカロリーがほとんどない。わたしたちは栄養失調になった。以前の食糧危機とおなじ状態だった。


食べものはこんなにたくさんあるのに、わたしたちは飢えていた。こんなにもおいしく、こんなにも安く、愛すら感じさせる食べものが目の前にあるのに、わたしたちは死にかけていた。


なにかほかのものでカロリーを摂取するしかなかった。しかし穀物、肉、植物、果物……<イル>以前にわたしたちが食べものはかがやきを失っていた。すべてが<イル>に劣った食べものだった。ひとくち食べて、それ以上口に入れる意欲をなくしてしまう。


<イル>といっしょに調理して、ほかのものも食べたらいい、そういう「折衷派」も出てきた。わたしたちは単純に「裏切り者」と呼ぶが。


「裏切り者」が<イル>に――あのすばらしき<イル>に――牛の乳を腐敗させたものや骨のだし汁やらで作ったソースをかけて食べるさまはネット上にいくつもある。


見どころは「裏切り者」がひとくち口に入れたあとの表情である。<イル>はほかの食べものと混ざったとき、うまさをなくし、食べた者にひどく不快な感覚を残すのだ。


わたしたちにその味を表す言葉はないが、たとえていうなら、むかし自分が失敗したときの記憶がよみがえってくるような、夜寝る前やシャワーを浴びているときに叫びたくなるような、消えない心の傷のようなものであった。


カロリーを摂るために<イル>とまがいものを合わせて食べた「裏切り者」は、カロリー不足は補えたが精神をむしばまれ、わたしたちより早くに死んだ。


けっきょくわたしたちは<イル>を食べつづけるしかなかった。日に日にやせ衰えていくのは仕方なかった。生か死かの選択ではなく、生か<イル>かの選択だった。もちろんわたしたちは<イル>を選んだ。


破滅のときは近い。それはみなわかっている。そんなとき、わたしたちの慰めとなってくれるのも<イル>だった。


粉状にした<イル>を、薄くのばした<イル>で巻き、高温の<イル>で燃やす。<イル>の煙を吸い体内に取り入れると、気分はどこまでも落ち着いた。これを吸いつづける限りわたしたちに不安はない。<イル>とともにある人生は幸福に満ちている。


<イル>を吸うと食欲もなくなった。わたしたちはもう<イル>を食べていない。<イル>を吸いつづけると<イル>が蓄積され、体内で<イル>が生成されるようになった。もう<イル>を吸う必要すらない。


わたしたちは<イル>で満たされ、いまや成分の100パーセントが<イル>である。


わたしたちは<イル>となった。完全無欠の、究極の食べものに。


あるものがいった。「いつか食糧難の生物がやってきて、わたしたち<イル>をむかえにくるだろう」


それはいい。そうなることを願っている。

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