おもいで銀行 砂浜支店
すごしやすい晴れた日の午後にだけ、列車はこの駅に止まる。
時刻表に載っていない臨時駅。駅舎のないホームだけの駅に降りたつと、目の前にはかがやく砂浜と、見渡すかぎりの海が広がる。
潮の香りが気持ちいい。波が打ち寄せ、引いていく。
ホームの端にある階段を降りると、ぽつんとひとつだけ建物がある。白い屋根に白い壁。それがあなたの目的地、<おもいで銀行 砂浜支店>だ。
*
老人はゆっくりとイスに座った。
隣にもうひとつイスがある。だれのだろう。
明るく開けた室内に、イスがふたつとカウンター。それだけ。
大きな窓から海と地平線が見える。
カモメが二羽、じゃれあうように飛んでいる。
「こんにちは、天気がいいですね」
気がつくとカウンター越しに男が座っていた。
「ああ、そうなんだ。だから今日は列車が止まるだろうと思ってね」
「そのとおりでしたね」
男は老人にきさくな笑顔を向ける。
「おもいで銀行 砂浜支店」の支店長だ。
「ところでこのイスは……」
老人はとなりのイスを指さした。
支店長は笑顔のまま。なにも言わない。
老人はこの笑顔が好きだった。
だからすこし、悲しかった。
「思い出を、おろそうと思ってね」
「はい、いつもの通りですね。ですが――」
「わかってますよ」
「いいんですか?」
老人は少し息を吐いて、銀行の中を見まわした。
白い壁、白い天井。狭すぎもせず広すぎもせず。ずっとここに座っていたい、そんな場所。
心地よい波の音が、押しよせては引いていく。
「今日で最後だと、わかっていたんでね」
はじめてここに来たのはいつだっただろう。
ふと老人は思った。
きっとずいぶん若いころだ。遠い昔、だったような気がする。
なにがきっかけだったかはもう思い出せない。
いくつもの記憶を預け、折に触れ引き出して、大切な記憶を味わった。
人生に負けそうになったとき、くじけそうになったとき、やる気に満ちた記憶が自分を救ってくれた……はずだ。
あるいは二度と経験できないような宝石のような記憶を預け、何度もおろしては喜びを追体験した……のだろう。
人間の記憶は薄れていく。だけど「おもいで銀行」に預ければ、その瞬間はいつでも引き出せる。
満足したらもう一度預ければいい。そしてまた引き出して……。老人はそれを繰り返した。
「お客様の記憶はだいぶ劣化が進んでいるようです」
いつだっただろう、支店長に言われた。
記憶をおろして味わうと、劣化して薄まる。その記憶をまた預ける。繰り返すたびに薄れていき、いつか必ずゼロになる。
老人はもう忘れてしまっているが、そうやっていくつもの記憶が消えていった。
しかし銀行に預けてある最後の記憶は、どの記憶よりも強かった。ほかの記憶がゼロになってもそれだけは残りつづけた。
だけど前回老人がおろしたとき、映像には暗いモヤがかかり、言葉もかろうじて聞き取れるほどだった。
次できっと最後だろう。老人は思った。
「ではすこしお待ちください」
支店長は立ちあがり、横にあるドアを開けいなくなった。
老人は目を閉じた。
波の音だけが聞こえる。
ずっとここにいてもいい。
じつのところ、自分がどんな記憶を預けているのか、それも忘れてしまった。
大切なものを預けたままだ、その思いだけだった。
「お待たせしました」
目を開けると支店長がいた。
カウンターにファイルを広げている。
「大変申し上げにくいのですが、お客様の記憶残高はほとんどありません」
「ああ、そうですか。もうないですか」
「はい」
「そうですか……。じゃあ仕方がないですね」
老人は座ったときとおなじように、ゆっくり立ちあがろうとした。
「ですが」
支店長が言った。
「当行はとても長い間お客様と取引させていただきました。その間の利子がございます」
「はあ」
「それからこれは最後のお取引ですから、いままでの感謝を込めて、ささやかなサービスもございます」
「サービスですか」
「サービスです」
支店長はいつもと変わらぬ笑顔だった。
「ありがとう」
老人は言った。
「では、どうぞ」
支店長は言った。
受け渡すものも儀式めいたものもなく、それだけだった。
老人は立ちあがった。
となりに、もうひとつイスがあった。
「ああこのイスは、毎度用意してもらって、ありがとうございます」
「いいえ」
「むかしは家内といっしょに来たものでしたね」
「なつかしいです」
「あいつがいなくなって、ずいぶんたちました」
「お客様もどうか、いつまでもお元気で」
「ありがとう」
そう言って老人は銀行を出た。
妻とふたりでこの駅に降り、ふたりで記憶を預けた。
妻はもういないが、記憶は残っている。
金色の砂浜はあの日とおなじ。
記憶の通りに歩いていけば、ひとつだけ石があるはずだ。
平らな石で、ふたりで座るのにぴったりだった。
ほら。いまも変わらず残っていた。
老人は石に座った。
ここだけ背後に木があって、涼しい木陰になっている。
いつもふたりで座った。
目の前に広がる海を一緒に見た。
妻とふたり、しばらく話した。
そうして列車に乗って、ふたりで帰った。
あの日、妻が言った言葉。
老人は横を見た。
だれもいない。
ひとりきりだ。
記憶の中で妻が言った。
「 」
ありありと聞こえた。
もう一度その言葉を聞けた。
男は手をのばす。
だれもいない。
だけどあの日にぎった手の感触がよみがえる。
妻がそこにいた。
男は立ちあがった。
ホームへ歩いていく。
背後で波の音がする。
カモメの鳴き声も。
二羽で空を飛んでいる。
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