芥川賞作品全作解剖

龍姫

戦前

「蒼氓」 石川達三 1935上半期 第1回

 第一回にして最高峰ともいえる選考会で選出された記念すべき小説は、ブラジルへの移民に胸を膨らませる人々を描いた群像劇であった。「蒼氓」は、人民、草民という意味を持つ。この軽妙かつ明快な筆致で描かれた小説は、登場人物の心理を突き詰めた典型的な純文学というより、風俗小説に近しく、戦後、作者・石川達三が風俗作家として大成することを予見している。

 筋書きも至って単純。この小説が書かれた時期の前後、日本では一攫千金の機会を逃すまいと、南米、殊にブラジルへの移民が盛んに行われていた。しかし、実際に新大陸に辿り着くにも一苦労を要する。中でも大きな壁となるのが伝染病である。医療がまだ発展途上であった当時、伝染病に罹ることは大変なことだ。船で渡航する最中にこれで乗員乗客が全滅するのだって珍しいことではない。そのため、敢え無くキャラバンから弾かれる者も多い。それでも、自らの健康状態を偽ってでも、全国各地から多くの人間が日本国内にあったありとあらゆる財を捨ててまで、異邦の地に足を踏み入れようとするものだ。

 検査で合格を貰った人間がすぐに乗船できるわけではない。彼らは一旦収容所に入れられ、そこでも一悶着を引き起こす。それも乗り越えた人間だけが晴れてブラジル行きの切符を手に入れ、船での長旅を始めるのであった。話はここで終わっている。

 この小説の登場人物一人ひとりは非常に個性ある描き方をされているが、彼らの見ている先は全く同じだった。誰しもが未知に孕んだ世界に期待を寄せていた。そこが楽園とは言い難い過酷な世界だとは知らずに。

 この小説は実は後に続編が書かれ、船内での様子を描いた第2部「南海航路」、ブラジル到着後の様子を描いた第3部「声無き民」で完結する。「蒼氓」含めた三部作は、一編の長編としても楽しむことができ、後に映像化もされている。


 私が最高峰の選考会と始めに述べたのはわけがある。この回では候補作としてほかに外村繁の「草筏」、高見順の「故旧忘れ得べき」、衣巻省三の「けしかけられた男」、太宰治の「逆行」が挙げられ、いずれも選考委員から一定の評価を得ている。さらに、太宰治はもとより、外村繁や高見順も戦後、他作品で文学賞を受賞していて、作家としての活躍が目ぼしいものとなっている。その中で、奇抜な題材を拾い上げ、描写が優れた石川達三に軍配が挙がったのだ。

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