第2話 やさしいエルフの姉弟

 目覚めると、辺りが明るくなっていた。寝台にいたはずの姉エルフの姿が見えない。イカは目を擦りながら、床へと這い出た。柔らかいラグマットに身を横たえていると再び眠気が襲ってくる。


 下の階からトントントントンと音がする。イカは恐る恐る階段を下りた。台所にエプロン姿の姉エルフが見えた。しばらく視線を向けていると姉エルフが気づいた。


「おはよう」


 姉エルフは微笑む。イカはいま聞いた言葉を繰り返した。


「……おはよう」


 姉エルフが手招きする。


「さぁ、座って。朝ごはんにしましょう」


 イカはテーブルの前に座ると、食卓に並ぶ皿を見た。

 焼き魚に白いご飯。味噌汁に漬物。無論、イカはこの品々の名前を知らない。雰囲気で焼き魚は美味そうだと思っていた。白いご飯を箸で器用に挟むイカ。それを口に運ぶ。もぐもぐ。ぬちゃぬちゃ、にちゃにちゃした感触だ。あまり美味しくない。イカは味噌汁を啜る。不思議な風味が口いっぱいに広がる。イケるかもしれない。焼き魚に手を伸ばす。グイっと丸呑みだ。


「あなた、もう食べちゃったの?」

「ああ……美味しかった」

「本当に?」


 イカの向かいに座る弟エルフがじぃっと視線を向けてくる。


「お前さ、お姉ちゃんと仲良すぎない?」


 弟エルフは嫉妬ジェラシーに燃えていた。イカの黒いまなこが弟エルフを捉えた。何の感情もない目である。


「すまない……昨日は夜あんな事やこんな事をしていたばっかりに……」

「ちょっ、ちょっ……待てよ」


 悲報。弟エルフ、キムタクになってしまう。


「お姉ちゃんに何した? この悪魔め!」


 弟エルフはテーブルに置いたナイフを突きつけた。


ファイラル!」


 姉エルフが呟くと、弟エルフの額に赤い点が灯る。


「あっつい! ちょっとお姉ちゃん、やめてよぅ……えっぐ、えっぐ」


 半べそになった弟エルフ。イカは二人のやりとりをぼんやりと眺めた。


「あら、もうこんな時間。学校はいいの?」

「いけない! お姉ちゃん、学校に行ってくるね」


 弟エルフがカバンを持って出かけて行った。

 イカと姉エルフはふたりきりになった。姉エルフはイカの耳元で囁く。


「さっきの続き。する?」


 さっきとは何だ。そもそも話を振ったのはイカであった。イカは壁に掛けてある「一日一善」と揮毫きごうされた色紙を見ていた。きっと善いことに違いないとイカは思った。

 イカはまるで覚えていない。昨晩、自らの触腕しょくわんで姉エルフをはずかしめたことを。本当に無意識だったのだ。イカは野獣なのかもしれない。奇妙な事実であった。


 お茶碗やお椀を流しに運ぶと、イカは姉エルフの後姿を見ていた。これがいわゆる幸福というやつなのかもしれない。イカは溜息をついた。

 姉エルフの朝は早い。朝食が終わると、そそくさと洗濯機を回す。花の香りのする洗剤をとくとくと洗濯機に入れた。そしてモップと掃除機で部屋をきれいにする。汚れのひどい場所はアルカリ洗剤とスポンジで落とす。イカはその様子をしげしげと見ていた。まるでニートである。


 イカはもじもじと姉エルフに近づく。イカの背後で洗濯機が鳴った。

 イカは足を使って洗濯物を干す手伝いをする。役に立てたような気がする。後ろめたい気持ちも晴れていく。太陽の光が強く照りつける。これなら、すぐに乾くだろう。

 姉エルフはテーブルに座ると、赤いアンダーリムの眼鏡を掛ける。書物を高々と積み上げると、何か異国の言葉を口ずさみながら、勉強を始める。

 イカはその様子をじっと見ながら姉エルフに問う。


「何を勉強しているんだ?」

魔法学園マギカジウムの、口述試験対策かな」


 小さな淡いピンクの唇が動く。さっきの炎の呪文はこうして勉強したのか。イカが感心していると、外の雲が動いているのが見えた。一瞬、部屋の中が暗くなる。雲の切れ間から差し込む光が窓に漏れている。


「なぁ、魔法を教えてくれないか?」


 突然のことで姉エルフは目をしばたたいた。


「悪魔」


「それでも結構」


「いいよ。でも……」


 柔らかい唇の感触がした。窓の光がじっくりと消えていく。


「何をしたんだ? 俺に」


「魔法を授けたの」


 イカの顔に何やら紋様が浮かぶ。


「魔力を俺に分けたのか?」


 姉エルフは頷いた。そして、姉エルフは開いていた本に視線を戻した。

 イカはこのときの出来事を何度も思い出すであろう。でもそれはまた別の話だ。


 

 姉エルフとイカは市場に来ていた。刺激的な色とりどりの野菜や果物が並んで、活気に満ちている。「いらっしゃい」という声が聞こえる。イカは姉エルフの背中に絡みついている。魚に気を取られていると、姉エルフが言った。


「きょうはお昼、何にしようかな」


 食糧庫の確認は済ませてある。足りないもの。そういえば味噌がない。イカは持ち前の頭脳で食糧庫の食品を全て覚えていた。


「ありがと」


 イカと姉エルフは袋に食品を詰めて帰ってきた。部屋に入ると、イカは窓を開けた。心地良い風が通り抜けていく。部屋が涼しくなると姉エルフは昼食の準備を始めた。彼女は台所の前に立つと鍋に水を張り、火にかける。


「ねぇ、ずっと気になってた。あなたって何て呼べばいいの?」


 イカは考える。確かにあなたや君では辛いものがある。


「イカ、でいい」

「イカ……イカちゃん?」

「そう、それでいい」

「ねぇ、イカちゃん。そうめんって知ってる?」


 姉エルフの目が妖しく光った。ナイフを手に彼女は微笑む。イカは直感する。そうめん、イカそうめん……!

 それはよしてくれ。イカの思考は止まらない。姉エルフがイカを持ち上げると、鍋のなかの煮えた湯を見せた。


「知らないでしょ? こうやって乾いた麺を茹でるの」


 イカはほっと安堵した。すると弟エルフが扉を開けた。


「お前、お姉ちゃんに何してんだ?」

「な、何も……」


 本当だろうか。これまでのことを思い出したイカは赤面した。


してたんだ……きっと」

「イカちゃん、そうめんが茹であがるからお皿出して」

「はーい」


 家庭のなかに溶け込むことで難を逃れるイカであった。冷たいそうめんが皿に盛られる。弟エルフと姉エルフそしてイカがテーブルにつく。


「いただきます」


 するするとイカはそうめんを食べた。熱くなった体に心地いいのどごしだ。喉はないが。弟エルフはイカの顔をじぃっと見ている。イカの体に紋様が浮かんでいる。それに気づかないわけがない。


「お姉ちゃん、こいつに魔法を授けたでしょ?」

「ええ、悪いかしら」

「いや、何でもないけれど」


 弟エルフは口をもごもごさせた。嫉妬である。弟エルフは魔法を授ける手段を知っている。これでもエルフのなかで賢い部類に入る弟エルフは、想像力が逞しい。思わず赤面してしまう。初心うぶである。


「イカちゃん、さっきの続き。する?」


 イカと弟エルフは「何を?」と呟く。姉エルフはあははと笑った。

 

 外の雲行きが怪しくなってきた。にわか雨だろうか。針のような鋭い雫が降ってきた。洗濯物を急いで、なかに移す。三人は協力し合った。すべての衣類を移し終わると、三人は顔を見合わせて笑った。


 イカは窓の外を見ていた。遠い世界に自分がいること、世界には不思議が溢れていることを知った。振り向くと、姉エルフの横顔が見えた。彼女はとても美しいと感じた。この世界に二つと無いものだ。イカは遠くに光る星を見ながら、この幸せがいつまでも続くようにと願った。

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