第177話 ラモーネ・ドルネア公爵夫人
ここ最近、カザン王国の首都アズマークでは、異常な黒スライムの増殖に悩まされていました。
これまで王国はギルドに対して黒スライムクエストへの補助金を出すことで対応してきましたが、もはやその程度では黒スライムの増殖を抑えることができなくなってきました。
幸いなことに、これまでのところ首都の水道設備への影響はほ出ていません。それは王国が誇る水道陶管の加工技術によるものでした。カザン陶管として大陸でも名高いこの水道管は、物理的・薬学的な耐性だけでなく、ラーナリア女神神殿で祝福された素材を使用することで、魔を寄せ付けない性質を持っていたのです。
「もし魔物に出くわしたら陶管を捜せ」
というのは、市井の間でまことしやかに語られる噂のひとつでした。
さすがに個々の陶管にそこまで魔を払う力があるわけではないのですが、魔物や妖異は陶管に触れるのを嫌がる傾向にあるのは間違いありません。
いまも首都を賑わす行方不明事件で、地下水道に入ったまま姿を見なくなったという目撃情報が増加していました。
首都に住む多くの人々は「魔物に出くわしたら陶管を捜す」というジンクスを信じていたため、行方不明事件の犯人は魔物であろうと想像を働かせていました。
加えて近頃では、仮面の悪魔が深夜に地上を徘徊して人々を惨殺する事件が多発。惨殺現場の近くで、黒い仮面を被った男が地下水道に逃げ込むのを見たという証言も出てくるようになりました。
ここにきて王国は、黒スライムの異常な増加と黒い悪魔のような魔物の出現に因果関係があるのではと考えるようになりました。ここでようやく重い腰をあげて地下水道の調査と本格的な清掃に乗り出してきたのです。
しかし他にも数多くの難題を抱えている王国は、この問題の解決を自分たちの支援者に委ねることにしました。そのひとつがアシハブア王国であり、もうひとつがルートリア連邦だったのです。
そしてアシハブア王国大使館では、ユリアスに付き添われた背の高い女性が、特命全権大使から王都における特別警備委任状を受け取っていました。
正規の男性と比較しても背の大きいユリアスは、自分よりも身長が高い彼女を見上げて言いました。
「これで首都アズマークにおける、治安維持対応が可能になりました。しかし、ドルネア夫人、あまり無茶なことはお控えください。御身に何かあっては、私がドルネア公爵から処断されてしまうのですから」
黒い髪をポニーテイルに結んだドルネア夫人は、濃い碧眼をユリアスに向けて微笑みました。
「もし私に何かあったとしても、夫がそのような無思慮な行動にでることは決してありません。もちろんユリアス様の不安を煽りたてるような軽挙妄動に走らないこともお約束しますわ。私とてアシハブア王国の公爵夫人。外国における自分の行動に慎重さが求められていることは心得ているつもりです」
ラモーネ・ドルネア夫人から顔を寄せられたユリアスは、夫人の人間離れした美しい顔立ちに顔を思わず赤面してしまうのでした。
「し、失礼しました。ま、まぁラモーネ様であれば、大抵の魔物など簡単に蹴散らしてしまわれるでしょうね」
目を逸らしながらそう話すユリアスに、ラモーネ夫人は静かに笑みを返すのでした。
そしてこの日以降、
首都の闇にもうひとつの黒い影が現れるのになったのです。
~ 深夜の裏通り ~
北西区に隣接した北区ラメリア通り。
「キャァアアアアアアアア!」
人影のない深夜の裏通りでは、闇を切り裂くような女性の悲鳴が響き渡りました。 髪を振り乱して走っている若い女性は、何かに怯えて逃げているようでした。そして逃げる途中途中で足を止めては扉を叩いて助けを求めます。
「助けて! 夫が化け物に殺されたの! お願い助けて!」
建物の中には、まだ起きている住人もいたかもしれません。しかし、やっかいごとに巻き込まれたくないとばかりに、誰一人として窓も扉も開くことはありませんでした。
ピチャッ! ピチャッ!
若い女性は、その音を聞くと再び怯えて走り始めました。
ピチャッ! ピチャッ!
しかし、いくら逃げてもその音は彼女の跡を追ってきます。
「ひぃいいいいい! 助けて! お願い! 助けて頂戴!」
とうとう足腰が立たなくなった女性は、地面にへたり込むと、あとはもうひたすら命乞いをするのでした。精も魂も尽き果てた今、その目には絶望が宿っているたけになってしまったのでした。
ピチャッ!
音が彼女に追いつくと、暗がりの中に双月の光が差し込み、追って来たモノの姿を現しました。
「あぁ……ラーナリア様……お慈悲を……」
影から現れ出てきた黒い仮面の男。
それは人間の形をしていましたが、明らかに人間のそれとは違うモノでした。人間の身体ではありえないような関節の動き。その皮膚はまるで内側に閉じ込められた無数のネズミたちが、外に出ようともがいしているかのように、常にでこぼこと動いているのです。
その恐ろしい姿は、見ているだけで精神がむしばまれていくものでした。
とうとう、若い女性の精神から正気が完全に失われようとしたそのとき――
「!?」
倒れ込んだ彼女の耳に、背後から女性の歌声が聞こえてきたのです。
「山を越えーろ♪ 森をかけーろ♪ グレイベア村のためー♪」
それは美しい歌声でした。その歌は徐々に大きなものとなり、こちらへ急速に近づいてきていることが地面に倒れていた彼女にも分かりました。
スルスルスルスル……
背後に気配を感じた彼女がハッとして振り返ると、そこには背の高い黒髪の女性が立っていたのでした。
「仮面ラミアーBlack! 見参!」
そう叫んだ黒髪ポニーテイルの女性が、奇妙なポーズを決めると、その巨大な胸がバルルンっ! と音を立てて震えるのでした。
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