桑乃瑞希 ⑬
-7月19日 PM 7:20-
ビルの最上階。
フロアを丸々一つ使った寝室。
瑞希はベットの上で白いシーツを握り締めた。天蓋付きのベッドには、鳥籠のような息苦しさしかない。
「浮かない顔ですね」
ウォールナット材の椅子に腰かけた男、吉良蝶々が口を開いた。
部屋にはベッドと椅子以外の調度品は何もない。
吉良蝶々は瑞希とこの部屋に入って八時間余り、ずっと一輪のチョウセンアサガオを眺めていた。
すっかり萎れたアサガオを、花弁から口に入れ、優雅に咀嚼し、嚥下した。
傭兵団から派遣された他の二人と比べても、不気味さは頭抜けている。
「御友人が来ているようですね。嬉しくないのですか。あなたを想った、ヒロイックな行為ですよ」
下の騒ぎは瑞希がいる最上階まで伝わってきていた。
羽子は、数分前に部屋を出て行った。
「誰も頼んでない」
来てほしくなかった。
だからあの夏祭りの夜、はっきりと拒絶した。誰も自分のせいで傷ついてほしくなかったから。
大吉と陽衣菜。左門徹平や、もしかすると春香や束早、尚継まで来ているかもしれない。
シーツを握り締める指は、血の気が引き白く冷たくなっていた。
希望を抱いてはいけない。
拒絶しなければならない。
大切な人たちを失いたくないのなら。
「怖いですか?」
間近で声がした。
眼前に吉良蝶々の顔があった。
中央分けの長い前髪は虫の触覚のように揺れる。ぎょろりとした双眸が、瑞希を覗きこむ。
瑞希は弱気になる自分を奮い立たせ、キッと睨みつける。
「私は自分の意思でここにいるの。私は桑乃の人間として、成樟との縁談を受けるのよ」
「自分のせいで親しい人間が死ぬ」
瑞希のか細い肩が揺れる。
虫の複眼を思わせる吉良蝶々の黒目がちな瞳の前に、心の怯えが曝け出されそうになる。
「怖いですか?」
顔を反らそうとした。
しかし吉良蝶々の長い節くれたった指に顎を押さえられる。目を背けられなかった。
吉良蝶々は花の蜜でも舐めるように、瑞希の頬に流れた涙の雫を、細い舌先で掬いとった。
「誰か上がって来たようです。仕事をしなければ。団長に叱られてしまう」
顎から手が離れる。
吉良蝶々は部屋を出ていった。
一人になり、両腕で膝を抱え、顔を埋めた。
「どうして。どうしたらよかったのよ」
瑞希の問いに、答える者はない。
◆
-7月19日 PM 7:25-
片翼で身体を覆った。
窓ガラスを破り、ビルの中層に侵入した。
「春香、大丈夫?」
「うん。束早は」
「平気よ」
春香を抱いて空を駆けに駆けてきた。
瑞希がいるというビルを目視で確認し、束早は減速しようとした。
春香がこの階層の窓を指さし、あそこにつっこんで、と言った。
その理由が、束早にもいま理解できた。
階段の踊り場だった。
後ろに水上陽衣菜が立っていた。
「春香さん、束早さん」
「えへへ、来ちゃった」
目をまん丸にして驚く陽衣菜に、春香は笑いかける。
「束早さん、その翼は」
「水上さん、その話はまた今度にしましょう」
束早は二人を背にして前に出る。
階段の先に、一人の男が立っていた。
ストレートヘアの前髪を中央で分け、肩から胸にかけて緑の蔦らしき刺繍が施されたウェスタンシャツを着ている。
昆虫の複眼を思わせるほど、黒目がちな眼をしている。
「あの人は?」
「桑乃が雇った傭兵の人だと思います」
陽衣菜が答える。
「吉良蝶々。
「名乗るものなのね、工作員て。水上さんに、なにをするつもりだったの」
「雇い主の意向に反する者を排除する。それが私たちの仕事です」
「問答は、無用のようね」
束早は波旬の翼を広げた。
「束早ちゃん」
春香が心配そうに呼びかけてくる。
「平気よ。波旬の翼を出していると、身体が軽くなるだけではなくて、力が湧くの。多分、なんとかできると思う」
「そうなんだ。でも、気をつけてね」
束早は頷いた。
傭兵団。つまり、戦闘のプロ。
片やこちらは去年まで普通の学生だったのだ。妖の力を得たのは、奇妙な縁でしかない。
格上の相手に、様子見は悪手。
大吉が、剣道での立ち合い方について言った台詞を思い出す。
「波旬、力を貸して」
束早は床を蹴って壁を駆け上がり、吉良蝶々の頭上を取る。
翼を打ち下ろす。
吉良蝶々が背中を向けた。あたふたと階段を駆け上がって攻撃から逃げる。
その動きは、素人目にも戦闘のプロには見えない。
「こういうのは羽子氏かストライカー氏の役回りでしょうに」
吉良蝶々は振り返りざまに腰のベルトに差した拳銃を抜く。
束早はそのまま翼を思い切り振り開いた。強烈な旋風が巻き起こり、衝撃で横の窓ガラスが割れ、外へ飛び散った。
烈風が吉良蝶々を壁に叩きつけた。蝶々は倒れ、ひくひくと身体を震わせたきり、動かなくなった。
「すごいよ束早、勝っちゃった」
「ほんとにすごいです! 束早さんってとっても強いんですね!」
春香と陽衣菜が階段を上がってくる。
「そんなことないわ」
素直には喜べない。
考えてみると、工作員ということは戦闘員ではないのだ。立ち回りが素人臭かったのも頷ける。
戦闘員でなかったのは、単なる運だ。もし相手が実戦に長けていたら、こうはいかなかったかもしれない。
「助けてくれてありがとうございます!」
陽衣菜が真っ直ぐ束早に向かって言う。
「水上さん頭を上げて。まだ終わってないみたい」
階段の非常用扉の奥から、人声がする。
扉を微かに開けた。流れてくる風が、人の足音を運んでくる。
「人が大勢こっちに来てるみたい」
「たぶん、成樟の警備隊です」
「どうしよう」
春香と陽衣菜が顔を見合わせる。
「二人は先に行って。私が、できるだけ引きつけてみる」
「そんな、束早さんばかりに危険なことさせられません!」
「やらせてちょうだい。知り合えたばかりだけど、瑞希や水上さんのために、私も出来ることをしたいの」
「うぅ、でも、」
「陽衣菜、行こう」
迷う陽衣菜の肩に、春香が手を添えた。
「束早、無茶はしないでね」
「ふふ、春香がそれを言うの? 大丈夫、わかってるわ」
春香は陽衣菜と階段を上がっていった。
束早は非常用扉から薄暗い照明の廊下に入った。
警備隊を引きつけるにはどうするべきか。
考えていると、廊下が歪んだ。
真っ直ぐ立っていられなくなり、壁にもたれる。
「なにが」
翼に手を回した。羽根の間になにか刺さっている。抜いた。指先ほどの大きさの弾丸だ。弾頭に、注射針のようなものがついていた。
「あのときね」
吉良蝶々の銃撃を翼で防いだ。そのときに、実弾に混じって撃ちこまれたのだ。
注射器らしき形状からして、撃った相手になにかを注入するための弾だ。
工作員吉良蝶々は、毒遣いだった。
身体が痺れてきた。
「くっ」
成樟の警備隊の足音が、すぐそこに迫っていた。
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