桑乃瑞希 ⑩
-7月19日 PM 6:20-
人目につかない場所と考えて、フェンガーリンとカラオケに入った。
フェンガーリンには春香の家をこっそり出てきてもらった。
春香にはこれから自分がしようとしていることを悟られたくなかった。
病弱な春香の親父は、年に何度も退院できない。一緒に過ごせる時間は、大切にさせてやりたかった。
「これで、一人でも影の力が使えるようになるのか?」
大吉はすっかり様子が変わってしまった自分の右腕を掲げ見て言う。
「せや。アレッシオの時はウチが傍にいて大吉の影に力を与えとったけど、今回ウチは一緒に行かん。足手まといになりたないからな」
不死とはいえ身体能力が人並で喧嘩の経験もないフェンガーリンでは、スピードが肝になる電撃作戦には向かない。
「そこでこれや」
フェンガーリンが、大吉の腕をぺちりと叩く。
前腕から手首にかけて、フェンガーリンの血で記号混じりの文字列が綴られている。文字は、旧ラテン文字らしい。
「この魔術で大吉の右手の影とウチの影を繋げた。せやから右手の影からなら、ウチの影の中に入れてあるもんなんでも取り出せる」
「ふむ」
「試してみい」
大吉はテーブルを端に寄せて作ったスペースで、床に自分の右手の影を落とす。
「影から物を引き出すにはその物をイメージするんやで。忘れとらんやろうな」
「大丈夫だよ」
フェンガーリンに渡された実物写真を見る。目を瞑り、頭の中でイメージを作る。
「成功やな」
右手の影から顕現した剣の柄を、大吉は掴んだ。
「これがグラディウス。古代ローマで使われていた剣か」
「せや。古いもんやけど、硬い鉄としなやかな鉄、二種類の鉄を折り合わせた代物や。十分使い物になると思うで」
「重いな」
長さは新聞紙の縦側と同じぐらいだ。装飾らしい装飾はなく、刀身と鍔、柄だけの造りだ。
小振りな割に腕にずしりとくる。
二、三度振ってみる。象牙の柄は指がしっかりかかるよう細工がしてあり手に馴染む。
「魔術、使えたんだな」
大吉は短剣グラディウスを影に戻す。
フェンガーリンは帽子のつばをいじる。目立つ銀髪を隠すため、頼んで被ってもらっている。
「ずっと使わんって決めてたんや。魔術にいい思い出あらへんさかい」
「そうか」
フェンガーリンには過去がある。十六年しか生きていない自分では、想像もつかない長い過去だ。
以前その過去に思慮なく触れようとして、後悔したことがある。
「そないな顔すんなや。そのうち話す。絶対使わんって決めとった魔術を、役に立つならちょびっとくらいええか、と思えるようになった。それは大吉、あと春香のおかげや」
大吉は頷いた。
「待ってる」
フェンガーリンも頷き返す。それからポケットを漁り、折り畳んだ紙片を取り出した。
「ほなこれも。役立つかもわからんけど、これまで影ん中に入れたもんで思いついたんは書き出してきた」
「ありがとう」
紙片を受け取る。
「じゃ、行ってくるよ」
「気いつけてな」
大吉はフェンガーリンに見送られ、カラオケボックスを出た。
◆
-7月19日 PM 6:30-
夕飯の時間で、子供たちは食堂に集まっている。
「行くか」
徹平はベッドから腰を上げた。
施設で子供たちが使うのは二段ベッドだ。どちらが上を使うか大抵もめる。
昨年の冬まで徹平は上の段を使っていた。それを今年中学生になった弟に譲り、今は下の段で寝起きしている。
どのみち十八になる来年には施設を出ることになる。自分の寝床を譲るなどと勿体ぶった真似をしたのは、自己満足でしかない。
あと一年で別れる弟妹に、兄貴らしいことをしてやりたい。
徹平は洗濯を干す場所で物干し竿にされている鉄棒を取り、施設の門へ歩いていく。
門の先の道に、人影があった。
「隆子」
「飯の時間だぞ。忘れたか?」
黒のパンツスーツ姿の隆子が立ちはだかる。白い開襟シャツの胸元を大きく開け、くすんだ色のブロンドヘアを風に靡かせている。
「そんなわけないな。食気は人並み以上にあるお前が」
「隆子、わりぃが―」
「御三家には手を出すな」
徹平の言葉を遮り、隆子がぴしゃりと言った。
「桑乃も成樟もお前が想像しているよりでかいぞ。象とミジンコだ。そんな相手と喧嘩する気か?」
「喧嘩をするのに、相手は関係ねえ」
「ふん、言うと思ったよ。行かせん」
隆子が尻のポケットに入れていた手を抜く。
「と言ったら?」
徹平は鉄棒を地面に突き立て、前に出る。
「どうもしねえよ。通るだけだ。ダチが助けたがってるやつがいる。俺も知ってるやつだ。生意気だけど可愛げのあるやつでよ」
「そんなことで、命を張るか」
「充分さ」
「そうか」
隆子はいつもの薄い色のサングラスをかけている。夕日がレンズに反射し、瞳を隠していた。
「一撃だ。私の本気の一撃を耐えられたら、好きにすればいい」
右腕のシャツの袖をまくり、隆子が言った。足を肩幅に開いた下半身はそのまま、拳だけを肩の高さまで上げる。
「おう。好きにさせてもらうぜ」
徹平は隆子の前まで進んで行こうとした。その足が施設と公道の境目で止まった。
「なんだ、そりゃ」
隆子の身体を、透明なものが包む。見えないのに、見える。
静かに猛る
立ち昇るその焔が、拳に集約していく。
近くの電線に留まっていたカラスが一斉に飛び去った。
隆子の周囲の空気が圧迫され、密度を増していく。足元のコンクリートや施設を囲う塀に、亀裂が走る。
「お前には何も教えてこなかった。力を持てば、否が応でも闘争に身を置くことになる」
足が鈍りのように重い。引きずっていって、隆子の前に立った。
拳に集約した力の正体はわからない。熱や光を発しているわけでもない。
なのに肌がチリチリと焦げる。肺を締め付けられ、息苦しい。
言い表せない恐怖。
それが、なんだ。
力の正体なんてどうでもいい。これは試練だ。試練は、乗り越えるしかない。
「いくぞ」
隆子が左足を踏みだし、拳を放つ。
拳が、陽炎のように消えた。
足元。
相撲でいう電車道ができていた。
雷に撃たれたように、全身が痺れていた。
顔を上げる。
地面に突き立てておいた鉄棒の先で、隆子が煙草に火をつけている。
徹平は底の擦り切れた靴を脱ぎ捨てた。地面にできた二足の線状の跡を辿り、鉄棒をとり、施設と外との境界を跨ぐ。
隆子が紫煙を吐いた。
「行ってきな、ばか息子」
「ああ。行ってくる」
鉄棒を担ぎ、素足で薄暮の町を駆けだした。
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