turning point.Ⅰ

桑乃瑞希

-7月14日 AM11:32-


雨が続いていた。

毛足の長い絨毯が敷かれた廊下の途中で、瑞希は足を止めた。

東館の窓から、庭の裏手にある森が見える。

春先にフェリセットがいなくなる事件があった。フェリセットは、陽衣菜に誕生日プレゼントで貰った大切な猫のぬいぐるみだ。

春香や大吉が協力してくれて、見つけたのがあの森だった。

「怪物でも出てきそうだわ」

灰色の雲に覆われた空の下、濡れそぼった森は暗く不気味な気配を放っていた。

「オレみたいな?」

突然耳元で声がした。驚き跳び上がった瑞希に、薄笑みを向けてくる。

羽子はごっ」

瑞希はじりっと窓辺に身を寄せる。

「怯えるなよ。そんなに驚くとは思わなかった」

わざとの癖に。瑞希は片腕を押さえ、背後から気配もなく現れた女、羽子に半身の姿勢を取る。

羽子はいつもの赤いポンチョを肩に羽織っていた。

「今日も可愛いな、瑞希」

七分丈のベージュのズボンに、ギンガムチェックのシャツを着ていた。

陽衣菜や春香と遊びに出かける時は、着たい服を着るようになった。けれど家ではこれまで通り、当たり障りのない恰好をしている。

ただ髪は春先から伸ばしはじめて、今は耳が隠れるくらいまでに伸びた。

「当然よ。アンタこそ、もう少し女らしくしたら?」

瑞希は精一杯の強がりで言い返す。

羽子は自分を「オレ」という。ベリーショートのツーブロックという髪型や飾らない態度も相まって、男っぽい印象が強い。

大抵身に付けている赤いポンチョだけが、歳相応の女子らしい。

「興味ないね。オレには仕事だけあればいい」

「人を殺す仕事がそんなに大事?」

「いまは瑞希の護衛がオレの仕事なんだぜ?」

「アンタが守ってるのは私じゃなくて姉の命令でしょ」

「その命令で、瑞希を守ってるのさ」

よく言う。

三日前に父が倒れ昏睡状態になり、姉が当主代行に就いた。それから瑞希は学校に通うことはおろか、屋敷からの外出も禁じられている。それと同時に姉が雇い入れたのが、羽子を含めた三名の傭兵だ。

護衛とは名目上で、実体は軟禁されているだけだ。

使用人も二日前から自室待機を命じられ、陽衣菜とも会えずにいた。

「そう睨むなよ。意地悪した詫びに、いいことを教えてやるからさ」

「いいことですって?」

「お前の姉貴が、お前と成樟なるくすの子女との縁談をまとめてきた」

風の向きが変わったのか、雨が窓に吹き付けてきた。

雨音が、瑞希の僅かな沈黙に重なってくる。

「そう」

「驚かないんだな」

「いつかはこういう日が来るって、覚悟はしてたもの。お父様が倒れられて、それが早まっただけ」

姉が家督を継げば、自分が他家と政略結婚に使われるのは予想していた。

その相手となれば、桑乃と並ぶ三大旧家、成樟か藤刀ふじわきの人間だ。

口の中に血の味が滲む。切れるほど、唇を嚙みしめていた。

平静を装う瑞希の綻びを、羽子は見逃さない。

「嫌なら逃げるか? 今なら雇われのオレ達しかいない。でもあと二、三日もしたら成樟の私兵に守られた別荘に移されるだろうな。そうなったら正真正銘、籠の鳥だ」

羽子の小馬鹿にした言い方に、カッとなった。平手を飛ばしていた。

頬を叩かれた羽子は顔色一つ変えず、瑞希の感情の揺らぎを楽しんでいる。

泣きそうになった。こいつに涙を見せるのだけは、死んでも嫌だ。

瑞希は羽子に背を向け、その場を立ち去ろうとする。

「このままでいいのか〜?」

羽子の声が、生気を失い静まり返った屋敷に響く。

「逃げ場なんて、ないのよ」

誰にも聞こえないよう噛み殺した声で、瑞希は吐き捨てた。

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