第22話 MINO 1930s 新しい春

「ありがとうございました。またおいで下さい」


 夜の予約のお客を見送ると、おミヨは営業終了の札を出して店の引き戸に鍵をかけ、厚い更紗のカーテンを引いた。


 つけっ放しになっている店の古いテレビからは、雑音混じりのスポーツニュースがひっきりなしに流れてくる。全国各地で次々に甲子園出場校が決まり、マウンド上でナインが抱き合って歓喜に沸くいつものシーンが繰り返し画面に現われる。


 ――そや、甲子園出場を決めたあかつきには、ベンチ入りした全員でマウンドに駆け登り、そこで一斉にバーンと狸の姿に戻るんや。それで、試合終了の挨拶なんかブッチして、尻尾振り回しながらグラウンドいっぱい転げ回りたい。


 甲子園に行ったら、どこまでも青々と広がる外野の芝生を、四つ足で思い切り駆け回りたい。


 ……ああ、駆け回りたかったな……


 そんなことをとめどなく想像しながら、おミヨは階段の下から二階を見上げ、セラピー室を片付けている海四みよんをうかがった。


 過去世の切れ切れの記憶をたどってみる。在学中きっちり化け続け、人と寸分変わらぬ外見を保ったまま甲子園準優勝の栄光に浴した美馬農林の狸球児たちが、本当のところ何を思い、感じていたのか。


 それは今の時代の只中にいるおミヨには杳として知れないものだった。


 人も狸も分け隔てなく、同じ土俵で肩を並べて切磋琢磨していくことこそが尊いのだ。

 後藤稀直まれなお監督は練習のたびに部員たちを並べて、繰り返しそう言い聞かせてきた。そのせいか、過去世から戻ったあともその言葉はおミヨの頭にはっきり残っていた。

 それは説得力に満ちていると同時に、おミヨは漠然とどこか座りの悪いものを感じていた。


 おミヨはテレビを消し、井戸の水を沸かして小型ポットに満たすと、カップを二つ乗せたお盆と一緒に薄暗い階段をゆっくりと上った。


 階段の上から海四の顔がおミヨを見下ろしている。


「これ、まだまだいけるな」


 海四はお客に出したハーブティーのポットに残っている茶葉にポットの湯を注いだ。湯気といっしょにハーブの香りがセラピー室に広がった。


 二人で茶をすすると、おミヨは狸の姿に戻り、いつものように行李の中に入ってタオルケットにくるまった。


 ――みっちゃん。


 ぱちん、と海四が弾く指の音を合図に、おミヨは過去世の扉をそろそろと開けた。


 ――みっちゃん。


 ……ウチ、めっちゃ忙しい……


 過去世の扉を開いて一歩踏み出したところは、美馬農林学校の倉庫だった。

 水場で洗って乾かした農具を、次々に運んではしまい込む。


「加納くん、これ場所が違うでよ」

「すみません」


 表示をよく見ながら、倉庫の決まった場所に鋤や鍬をきれいに並べて片づけていく。

 倉庫を出て校庭の方を見やると、あらかた散った桜の枝々から、やわらかな若葉が顔を出しはじめていた。


 ――美馬農林学校を卒業した狸たちは、それぞれの進路に旅立っていった。

 山に戻る者、人に化けて人間社会の中で暮らすことを選んだ者。

 そしてこの春、重清の山から野球部に、新一年生の狸部員たちが入ってきた。


 カノ――加納佳之は実習助手として学校に残った。昼は田畑に出て教師の実習指導を補佐し、授業が終わるとグラウンドに出て、後藤監督から学生野球の指導を学んだ。


「加納くん、仕事は終わったで?」


 後藤監督は、実習助手として働き始めたかれの名に敬称をつけて呼ぶようになった。


「はい」


「わかっとると思うが、野球は仕事とちがうけんな」


「はい」


「実習の方はどや?」


「今日は種籾の消毒です。ようけあるけん時間がかかりました」


「ほうか。――ほな、今日はバッピ頼むわ」


 カノは選手時代に着古した練習着姿でマウンドに上った。後輩たちが入れ替わり立ち替わりバッターボックスに入る。


 バッティングピッチャーとしてはまだまだ駆け出しのカノ。打ち頃の球をコンスタントに投げるのは簡単なことではない。時々、捕手が伸び上がってキャッチするようなくそボールが混じる。


「こら、ピッチャーどこ見て投げよんじゃ」


 監督の叱咤を受けつつも、四月の青空に快音を響かせる後輩たちが頼もしく、仕事の傍らこうして野球のできることが、カノは本当に嬉しかった。


 フリーバッティングが済み、額の汗を拭いながらマウンドを降りたカノの目に、パリッとした背広姿の、この辺では見かけない若い紳士が校舎に入っていくのが映った。

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