導く

「それで、どうするんですか、こんなところに来て。魔法書は完成していないんでしょう?」

「うん。でも、手立てはあるから」


 答えたユーフェミアは、左の掌を広げ、その上に魔法書を載せた。紐で綴じられた本の背表紙を、右の人差し指でなぞる。古びた紐が切れて、本はばらけた。

 左手を月に掲げるように持ち上げる。それから、本に魔力を流した。風なき空に、本のページが淡い光を纏いながら浮かび上がる。ページ一枚一枚が離れて、宙へと舞い上がる。

 ユーフェミアは、ぐるりと頭上に円を描くように左腕を回した。ページが軌跡を追いかける。その後もなお腕を回せば、紙が渦を作り出す。

 紙がひとりでに渦巻き、居館の周囲を取り巻くようになった頃、ユーフェミアは両手を左右に広げた。月明かりを一身に受けるように胸を張る。魔法書のページが作り出した空気の渦に、肩までの金髪が、藍色のローブがはためく。


「……さあ。来て」


 しばらくは何も見えなかった。淡く光る紙が渦巻いているだけだった。その中に、蛍火のような珠が紛れ込むようになったのは、いつのことか。珠はふらつきながら渦に呑まれていく。


「これが、魂?」


 ヘクターは忙しなく首を回して辺りを見渡していた。いよいよ集中を高めていたユーフェミアには、答える余裕はない。必要以上に力が噴き出しそうになるのを抑え込みながら、腕を下ろす。しかし右手だけは、胸壁に置かれたランプを掴んだ。頭上に掲げる。

 それはまるで誘蛾灯の如く、渦の中から魂たちを呼び寄せた。十ほどの光の珠が、ユーフェミアの右手の周りを飛び交った。そのまま、留まる。


 魔法書には、地に囚われた魂を引き剥がす方法が書かれていた。けれど、引き剥がされた魂たちを導くすべは書かれていなかった。

 ユーフェミアは、ランプを頼りに魂たちを呼び寄せた。問題はこれから。如何に、魂たちを浄化のみちへと導くか。


 ランプを見つめるユーフェミアの瞳が揺れる。身体から何かが引き剥がされる感覚が襲った。

 ――巻き込まれる。

 身の危険を感じながらも、ユーフェミアには、今更魔法を止める術はない。

 このままユーフェミアも魂になれば、自ずと路は開かれる。そして、迷える魂たちを連れて行けば、きっと彼らは転生に至るだろう。

 けれど、そのとき自分は。


「何やってるんですか!」


 唐突に、左手を掴まれた。活を入れるように叫ぶのは、ヘクターだ。泣き出しそうな表情で、こちらを見つめている。

 霞がかっていた思考が、はっきりとする。水を被ったような気分だった。ユーフェミアは二度、三度目を瞬かせると、破顔した。


「でかしたわ」


 ユーフェミアの意思とは異なるところで、唇が動く。背後から肩を掴まれて、そのまま引き倒される感覚。そのまま白い世界に尻もちをついたユーフェミアの意識は、セラフィーナの法衣の背中を見た。


「流されて。馬鹿な子」


 瞳を赤くしたユーフェミアの身体は、ヘクターの手を振りほどいた左手を天に翳した。月明かりの下両手を掲げる娘は、魔力を迸らせた。宙に水塊が現れる。水塊は、天馬の形を為した。

 月明かりを歪めていなないた天馬は、両翼を羽ばたかせ、天高く昇っていった。蛍火が、そして渦巻いていたページが、それについていく。

 水の天馬は一直線に月を目指した。その姿が小さくなっていくにつれて、シェキナ監獄は静寂を取り戻していった。

 あとに残されたのは、呆気にとられたヘクターと、再び現実に意識を浮上させたユーフェミアのみ。一瞬だけ表に出てきたセラフィーナは、再び意識の底に沈んでいった。

 しっとりとした空気の中で、二人は立ち尽くした。


「えっと……終わり、なんですか?」

「……うん。どうにかなったみたい」


 そうですか、と応じるヘクターの表情は、夢を見ているかのようにぼんやりとしていた。ヘクター自身も魂が抜けてしまったような表情で、天頂に差し掛かった満月を見上げる。目を細めているのは、天馬の姿を探しているからか。

 そんな彼に、ユーフェミアはそっと声をかけた。


「ありがとう」


 ヘクターがユーフェミアのほうを見る。いえ、とヘクターはまだぼんやりとした様子で頷いた。自分が何をしたのか、よく分かっていないのかもしれない。あのときあれだけ必死な形相をしておいて。

 だが、それでもユーフェミアは救われた。


 ユーフェミアの肉体は、魂を二つ宿している。その所為か、ユーフェミアの魂は、離れやすい傾向にあった。

 過去に一度、セラフィーナに身体をすっかり明け渡したことも、関係するのかもしれない。

 だから、今回魂を強引に大地から引き剥がす魔法に巻き込まれた。

 もしヘクターが引き戻してくれなかったら、ユーフェミアもまた他の魂たちと一緒に浄化の路へと至っただろう。

 ――一瞬、それでも良いかもしれない、と思ったのは、ヘクターとのことがあったからだった。やはり自分より聖魔女のほうが望まれているのだ、と思ったから。セラフィーナの言う通り、周囲の意見に流されてしまったのだ。


「あの……」


 そのヘクターが、俯きながらユーフェミアの前に立つ。


「ごめんなさい」


 深々と、頭を下げた。

 ユーフェミアは、聖魔女に憧れ続けていた後輩の後頭部を黙って見つめた。


「俺――」


 何かを言いかけたヘクターは、そのまま言い訳を飲み込んだ。頭を振ると、もう一度「ごめんなさい」とだけ言った。

 ユーフェミアは、小さく笑みを溢した。


「いいよ」


 ユーフェミアは、怒ってはいなかった。だが、悲しくはあった。それを理解してくれたのだから、もう良いのだ。

 それに、他ならぬそのヘクターがユーフェミアのことを引き留めてくれたのだ。それがどれだけ大きかったことか。


「帰ろうか」


 ユーフェミアは、未だ頭を下げ続けるヘクターに微笑みかけた。目的は果たした。もうここにいる理由はない。


「……はい」


 そうして顔を上げたヘクターは、しばらくユーフェミアの顔に見入ったようだった。まじまじと見られる覚えもなく、ユーフェミアは首を傾げる。

 ヘクターは、気まずそうに顔を逸らした。ぎこちなく階段へ向かう。

 そういえば、とヘクターの背中を見ながらユーフェミアは思い至った。何度か、憧れの聖魔女が出てきたのだが、彼はそれに気付いたのだろうか。

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