眩い光のその向こう
森陰五十鈴
頼りない先輩
この国には、英雄がいる。
今から百年前、隣国ダリアッドとの戦争を終わらせた聖なる魔女セラフィーナ。一人で幾百、幾千の兵士を退けてきた彼女は、まさに英傑と呼ぶにふさわしい。
ヘクター・ギランはずっと、彼女に憧れ続けてきた。自分が彼女と同じ魔法の力を持っていると知ってからは、なおのこと。
だが、現実は常に容赦がなくて。ヘクターは、魔法を使う者の中でもただの凡人に過ぎなかった。魔法学院を卒業し、宮廷魔道士にこそなれたが、実のところただの書庫勤務だ。
薄暗くだだっ広い部屋。緑の絨毯。規則正しく並んだ本棚の林。その傍らに設置された大机の前に、ヘクターは帳面を片手に立っていた。机の上に積み上げられた本の山。そのタイトルを読み取り、帳面の目録と照らし合わせ、中身をめくって、選別して。実に単調な作業。藍色に金糸の刺繍がされた高級感漂うローブも、こんなところにいれば野暮ったい作業着でしかなく。学院を卒業したばかりの若い身空なのに、早くも隠者になってしまったような気分。いや、それどころか、この本の山の片隅に棄てられたかのようにも感じられた。
――いずれにしても、自分はこの程度。
耳元で意地悪く誰かが囁く。そんなことは嫌というほど知っている。夢を見ることさえ不可能だ、と学院在籍の四年間で思い知らされてきた。自分よりすごい奴はたくさんいる。今更英雄になりたいなどと高望みはしない。
だけど。
――この人は、違うだろう。
ヘクターの向かい側には、一人の娘がいた。ヘクターと同じ藍色のローブを身に纏い、本の整理している。十八の自分より一つ上、この書庫での先輩。顔立ちは平凡。身体の線は細く、ローブが大きく見えた。肩までの濃い金髪を揺らし、本の山を見つめる黒い眼は真剣そのもの。しかし、その人差し指で本の数を数える
「どうかした?」
じっと見ていることに気付かれたか、その先輩が顔を上げ、小首を傾げた。なんでもないです、とヘクターは曖昧に笑い返し、作業に戻る。帳面を睨みつけたヘクターの胸中はモヤモヤとしていた。一言で言うと気に入らなかった。この、〝普通〟としか言えない先輩の姿が。
ヘクターがまた学院の学生だったとき、一つの噂が流れた。『聖魔女セラフィーナの転生者がいる』という噂だ。その人は〈再臨の魔女〉と呼ばれ、魔法学院を卒業したあとは、宮廷魔道士になるらしい、と周囲は騒ぎ立てていた。
その〈再臨の魔女〉がこの先輩――ユーフェミア・ドレイクだと突き止めたのは、ひとえにヘクターの執念に寄るものだろう。学院に在籍しているときから〈再臨の魔女〉の情報を掻き集め、彼女が一度宮殿で行われた儀式に招かれたことを知った。宮廷魔道士に入職後は、その儀式についてを中心に、先輩方に尋ね回った。その儀式の詳細は知ることができなかったが、〈再臨の魔女〉が宮廷魔道士の中にいることの確信を得て――それが、自分と同じ魔法書庫に配属されている奇跡を知った。
そこからは、早かった。比較的年齢層の高い職場で、唯一ユーフェミアが歳の近い先輩だったから。学院で噂が流れ出した頃から換算して、〈再臨の魔女〉はヘクターより一つか二つ上。当てはまるのは、彼女しかいない。
ユーフェミア・ドレイクが〈再臨の魔女〉だと睨んでから、ヘクターは彼女を観察し続けていたが……何分彼女は凡庸だった。後輩であるヘクターの指導をしてはくれるものの、基本的には上司の指示に従って仕事をこなすのが精一杯の様子。そもそも魔法書の書庫番などという地味な仕事をしているのも信じ難かった。本当に〈再臨の魔女〉なら、もっと華々しい場所で活躍していて然るべきだろう。そういう意味で、ユーフェミア・ドレイクは、ヘクターの期待を裏切り続けていた。
本当にユーフェミアが〈再臨の魔女〉なのか――疑ったことは、ヘクターにもある。だが他の人間を示唆するような情報もなく、ヘクターは彼女を観察し続けるしかなかった。
いつか、英雄の転生者に相応しい姿が見られると信じて。
「あれ?」
向かいのユーフェミアが眉を
「この本……目録に載っていない」
前屈みになって帳面を覗き込み、ページに指を走らせて項目を一つ一つ確認する。実に素朴な仕草に内心で溜め息を吐きつつ、ヘクターも机を回って彼女の手元を確認した。淡青の表紙の、紐綴じの薄い本。素人が紙を束ねて作ったかのような、簡素な造りの本だった。表紙の真ん中に長方形の白い紙が貼られていて、『
ヘクターはユーフェミアの持っていた帳面を借り受け、ページをめくってみた。目眩がするほど敷き詰められた文字の中から、確かに該当する言葉は見当たらない。続いてヘクターの担当分も調べてみるが、やはり『魄』の文字は見つけられなかった。
「なんだろう。儀式の本みたいだけど……」
ページを開いたユーフェミアは、書かれた文字を追いながら、眉根を寄せる。その眉尻がだんだん下がっていった。分からないらしい。やがて観念したように目蓋を伏せ、本を閉じてしまった。
「アビントンさんに訊いてみるね」
本を持って、上司のもとに行ってしまう。
先輩の姿が見えなくなると、ヘクターは盛大に溜め息を吐いた。上司に助けを求める彼女には、やはり聖魔女の面影は感じられない。あえて凡庸を演じているのか、とヘクターは疑った。表舞台に出る気がないのかもしれない。そうでなければ、もう少し騒ぎになっていただろうから。
「でもなぁ……もっと、もうちょっと、カッコいい姿を見せてくれてもなぁ」
ヘクターは肩を落とさずにはいられなかった。憧れだった聖魔女セラフィーナ。その生まれ変わりがああも冴えない小娘だなんて、幻滅以外の何物でもない。きっと彼女にも英雄的要素があるはず。ヘクターはそう思わずにはいられなかった。
ヘクターがずっと憧れ続けたものが、そんな脆いものであると信じたくなかった。
ユーフェミアは、すぐに戻ってきた。上司のアビントンも伴って。
アビントンは、白くなった頭を刈り込んだ、初老の男だった。身体は細く骨ばって、青い目は落ち窪んでいる。暗がりで見ると怖い見た目だが、上司としては丁寧で穏やかな、理想的ともいえる人柄だった。
アビントンは、ユーフェミアが指し示した本の山を見る。どの本と一緒にあったかを訊いて、相槌を打つものの、彼自身も件の本には覚えがないらしい。
「ラスカから送られてきた本だというのは、分かるんだけどね」
「ラスカ、ですか」
それはこの国オルコットの南東にある城塞都市の名前だった。百年前の戦争時代には、要衝にもなった場所。今は観光地として有名だ。
「そもそもこれらの本は、ラスカの魔道士が、監獄から出てきたものを管理してくれと送ってきたものなんだよ」
「監獄……?」
「そう。魔女を囚えていた、シェキナ監獄のね」
ユーフェミアは表情を曇らせて、本を眺めやった。
百年前聖魔女セラフィーナが戦で活躍したものの、それより以前の時代には、魔法を使う者は
この本の山はそんな彼女たちの遺品なのだと知る。
「この本がそのうちの一つなのか。それとも、もともとラスカで取り扱っている本が紛れてしまったのか。判断がつかないね。だから君たち」
ラスカに行って調べてきてくれないか。アビントンはそう言い渡す。
「
「そうだよ」
当然だ、とばかりにアビントンは頷く。ヘクターは不安を覚えた。新入りの自分と二年目の彼女の二人だけで出張に行けというのか。特にユーフェミアは、先輩として頼りない姿を見せているというのに。
だが、考えようによっては、良い機会かもしれなかった。二人きりであれば、彼女の本来の姿を遠慮なく探ることができる。尋ねにくいことも訊けるだろう。彼女こそがセラフィーナの生まれ変わりだと確信を得るのにはうってつけのように思えた。
「分かりました。行きます」
ユーフェミアも頷く。その様子はやはり心許なさそうで、ヘクターは複雑な気分になった。
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