第9話 この身体でお支払いしたい
僕の人生において最も説教された日から一夜明けた。
日頃の習慣とは恐ろしいもので、ゆっくり寝ていても良かったのにも関わらず、朝早くから行動を開始していた。
電車に揺られ1時間半が経過した頃、目的の駅に到着した。
構内の景色を楽しむ事もなく足早に改札をくぐる。
この街に来るのは約2ヶ月ぶりだ。物件の内覧に来た日の記憶が甦る。浮かれていた過去の自分を思い出し苦笑いが漏れる。
あの頃の僕に、言ってやりたい。
お前は見知らぬこの街で、1人で生きていく運命……だと。
ジリリリリリリリリ〜ジリリリリリリリリ〜
突然スマホが鳴り響いた。空気を読まず電話をかけてきたのは誰だ?人がせっかく感傷に浸っているというのに……。
スマホをポケットから取り出し画面には『矢野菜月』と表示されていた。
また何か説教をされるのかと、つい身構えてしまったのは言うまでもない。
「もしもし?」
『あ、先輩ですか!!今いいですよね?』
「ああ……」
普通は、今いいですか?と聞くべき場面ではないかと思ったが、面倒になるのが目に見えていたので敢えて口にはしなかった。
『起きたらお姉ちゃ……姉の家に居たので驚きました。私、居酒屋の途中から記憶ないのですが……先輩に失礼な事とか言ってませんでしたか!?』
昨日、矢野に言われた事は多分間違ってないと頭では理解はしているものの納得はしていない。
あれだけ言葉のナイフで切り刻んでおいて、忘れているのか……。矢野さんに止められているので口には出せないが本音としては言ってやりたい。
25歳処女が30歳童貞を馬鹿にしていた恨みは忘れない。器が小さいと言われようと絶対にだ!!……と。
結局、適当に話を合わせる事を選んだ。
「ああ……気にする様な事はなかったぞ」
『そうですか、それなら良かったです。あ、そう言えば姉も先輩と有意義な話が出来たと言っていましたよ。何を話したんですか?』
「…………」
有意義な話……誰と誰が?身に覚えがないので、甚だ疑問ではある。
「大した話じゃないぞ、それより今から仕事だろ?そろそろ切るぞ」
『あ、最後にもう一つだけ。先輩の住む家の住所……会社で調べたら分かるんですけど……メッセージで送っておいてください。絶対ですよっ!!プープープープー』
そう言ってこちらの返事を聞かず切ってしまった。
矢野の騒がしい態度に溜息を吐きつつも、先程まで感じていた寂しさが消えていた事に気づく。
「さて、気を取り直してアパートに向かうとするか」
誰に聞かせるでもなく呟き歩き始める。矢野と電話をした後の足取りは何故か軽く感じた。
アパートは駅から徒歩10分の距離なので、あっという間に到着した。
時間を見ればまだ8時半を回ったばかり。
大家とは言え、他人の家のチャイムを鳴らすには早すぎる。
暫くの間拠点となる自分の部屋、201号室で時間を潰す事にした。
9時を回り、問題の滞納している住人の元へ向かう。奇しくも僕の下の部屋である101号室だ。
インターホンを鳴らすが反応は無し。ドアに耳を当てれば物音がする。
改めてインターホンを鳴らすと、『どちら様でしょうか?』と弱々しい声で返事があった。
「三条さん初めまして。新しい大家の高槻と申します」
『大家さんでしたか……今そちらに向かいます』
ガチャリと扉が開き、顔を出したのは60歳ぐらいの初老の女性だった。
「お約束もなく、朝早くから申し訳ございません。改めて自己紹介させていただきます。この度、こちらのアパートの大家になりました高槻と申します。大家が変わる旨の文書は以前送らせていただきましたが、ご確認頂けましたでしょうか?今日は三条さんが滞納している家賃の事でお話させていただきたく伺いました」
「ご迷惑おかけして申し訳ございません。もう少しだけ待っていただく事は出来ないでしょうか?お願いします」
やはり素直には応じてもらえないか……。何かしらの事情があるのだろうが、ここは心を鬼にして要求を突っぱねなければならない。
「申し訳ございません。長らく滞納されているので、それは出来ないご相談でございます」
「無理を言っているのは承知しております。今すぐではありませんが、返すアテはありますのでどうかお願いします」
そう言って深々と頭を下げる。話し始めて僅かな時間しか経っていないにも関わらず、女性の顔色はどんどん悪くなっていく。
この状態で話を続けられる程の冷徹さは流石に持ち合わせていない。
「体調が優れないようなので出直します」
そう言ってこの場を離れようとした矢先、女性から呼び止められた。
「お待ち下さい。座って話をさせていただければ大丈夫です。散らかってますが、どうぞお入りください」
「分かりました、それではお邪魔させていただきます」
部屋に入り、お茶をご用意しますと言われたのでそこは丁重にお断りした。
お茶を断ったのは、女性の体調を気遣っての事だった。
リビングに置かれたローテーブルに腰を下ろし早速女性が話し始める。
「それで先程の話の続きですが……今はお金はありません。ですが、叶うならばこの身体でお支払いしたいと思っております」
「…………」
山本……お前が変な事を言うから本当になったじゃないか。
「おそらく私はもう長くはありません。お恥ずかしい事にしっかりとした保険をかける余裕もなく、今に至ります。私に出来たのは定期死亡保険の加入が精一杯でした」
定期死亡保険は一般的に掛け捨てタイプの保険だ。途中解約による解約返戻金がなく、一定の保険期間に亡くなれば死亡保険金を遺族が受け取れる仕組みだったと記憶している。
「保険金で支払うという意味でしたか……」
僕は最初からそうだと思ってたよ。お金のアテについては理解したが、そこで一つの疑問が生じた。
「無礼を承知でご質問させていただきます。前の大家さんより、高校生の娘がいるご家庭と伺っておりましたが、その……」
「ああ……言わなくても大丈夫ですよ。こちらこそ失礼致しました。私はこの部屋の賃借人の三条百合の母です。高校生というのは私の孫の事です」
「この部屋で3人でお住まいになってるのですか!?」
自分の物件だから悪く言っても良いと思っている訳ではないが、この部屋に3人は狭すぎる。
「お金と身体の都合で1人では住めなくなりました。娘が心配してこうして呼んでもらったので甘えてしまいました」
そう言って女性は力無く笑った。同時に身体が大きくグラついたので慌てて支える。
「話は分かりました。後の事は娘さんとするので、もうお休みになられて下さい。ご家族が帰ってくるまで差し支えなければ、このままここに居させてもらっていいですか?」
「そうさせてもらいますね……この家にあるものは好きに使っていただいて構いません。昨日の残り物で良ければ冷蔵庫にあります。もしもお腹が空いたなら召し上がって下さいね」
そう言って女性は布団に入り横になる。暫くすると寝息が聞こえてきた。
僕は何をするでもなくそのまま部屋に留まっり、既にこの世には居ない自分の母親の事を考えていた。
ふと気づけば夕方になっていた。いまだに誰も帰ってくる気配はない。
病気の女性を放っておいて、平気な人間などいるはずがない。
親を自分の元に呼び寄せたぐらいなのだから、尚更だろう。
一緒にいてあげられない理由……そんなのは分かりきっている。
僕にできる事はあるのだろうか……。
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