第8話 日曜日、友人の願い

 あれから深鷹はずっと同じ席に座ったままだった。不思議と誰もこの席に座ろうとしなかった。日が暮れて、夜になり、月が沈み、日が昇る。雨はまだ降り続けていた。店員が開店の前の掃除をし、テーブルを拭いている間も深鷹はずっと、手元の黒い塊と戯れていた。欠けた頭からしたたる血が白い頬をつたい、肩を濡らす。店が開いて数分。一人目の客がドアベルを鳴らし入ってきた。伊鶴だった。

 店内に鳴り響くクラシックをかき分けながら、伊鶴はまっすぐに深鷹のいる席に向かう。そして腰を掛けると、店員にいつものコーヒーを頼んだ。

「おはよう」

 何も言わない伊鶴に、深鷹は声を掛ける。

「おはよう」

 伊鶴の声は震えていた。黒い睫毛も、その奥の瞳も、いつもより暗く感じる。

 またしばらく沈黙が続く。店員はいつものようにコーヒーを運び、去って行った。伊鶴は熱いそれに手を付けず、じっとテーブルに目を落とす。けれどその視線は、同じテーブルにいる黒い塊を見ないようにしているようだった。

 コーヒーの湯気がか細く消えかかる頃、伊鶴は口を開いた。

「今日は」

 その声はもう震えてはいなかった。ただただ、諦めにも似た悲しみがそこにはあった。

「君の願いを、叶えるよ」

「そうか」

 深鷹はそっと黒い塊を手の内にしまい、伊鶴の顔を見る。血の気の失せた白い顔が、深鷹を見ていた。

「もういいのか」

 金色の瞳が暗いアメシストをとらえる。

「もういいよ。君を、長い間付き合わせてしまった」

「そうか」

 静かな雨音は店の中まで届かない。深鷹は、少し笑って言った。

「私は少し、嫌だな」

 伊鶴は泣きそうなほどに顔を顰めて、絞り出すように言葉を発した。

「私が、私の思いを知っているのに。なんで君はそんなことを言うんだ……っ。なんでっ……」

「君が嫉妬しているのが、羨んでいるのが、私の顔や、成績や、家柄じゃないとわかったからだ。君はただ、私の存在に憧れていた」

「私は君になりたかった……。だたの、普通の、君になりたかった。……違う。私はただ」

「私の隣に立ちたかった?」

「……そうだよ。友達の一人じゃ、ダメだった。かけがえのない。たった一人の友人になりたかった……っ」

 伊鶴はもう真っ青になった顔を抱えて、泣き出してしまった。店員や、他の客が何事かと視線をよこして、やがて興味を失ったように元の様子に戻って行った。深鷹も黙って見ていた。

 顔をあげた伊鶴は涙をぬぐい、鼻をすすりながら言葉を漏らしていく。

「私を責めないのか?」

「そんなつまらないことはしない。君といるのは楽しかった」

 伊鶴は弱々しく笑った。深鷹も、静かに笑っていた。赤くなった目元を擦りながら、伊鶴ははっきりと口にした。

「君の願いを叶えたら君はいなくなってしまう」

「そうだな」

「けれど必ず叶えると約束した。それも本心だ」

「そうか」

「ずっと覚えていると言ったのに」

「人間なんて曖昧なものだとも言った」

 二人は静かに目線を合わせる。

「許してくれてありがとう、深鷹」

「叶えてくれてありがとう、伊鶴」

 さあっとひときわ強く、雨が窓を打った。

 

 伊鶴はすっかり冷めたコーヒーを前に、不思議な気持ちでいた。自分はいままで何をしていたのだろう。コーヒーを口に含み、風味のないそれに眉をしかめ、一気に飲み干した。ここしばらくいろんなことがあったが、そのどれもにぽっかりと穴が開いたような心地がする。伊鶴は少しだけそのことを考えて、やめた。きっといつものように、誰かの願いを叶えた結果なのだろう。なんの代わり映えもない、ただの日常だ。

 伝票を手に席を立つ。ドアベルの音をくぐれば、さびた看板からぽたりと雨粒が垂れてきた。雨はもう上がっていた。

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