若人の語り場

@99nyorituryoa

誘蛾灯に群がるのは

 誘蛾灯、というものはみなさんご存知だろう。夜間に照らすことで、蛾をおびき寄せるあれだ。なんでも、虫というものは光に向かって飛んでくる習性を持つらしい。

 なんでまたこんな話をするのかというと、とあるツイート(今はポストだったか、しかし私にはこちらの方が言い慣れているのでこの表記を続けさせてもらう)を見て、それに返信したからだ。

 そのツイートは、以下のような内容である。名前などは伏せさせていただくため、おおよその内容を掲載させていただく。

「普段SDを載せた時には反応しないのに、元祖や輝羅鋼を載せたらめちゃくちゃ反応してくる人間がいるのはなぜか?」

 それに対して私は、「そういう人間は知識をひけらかしたいだけではないか? そして、自分もそうなってはいないかが不安である」という旨のリプをした。その方は、「あなたはそういうマインドの人間ではないと思いますよ」と返信してくれた。まさか自分の如き若輩者の、何もしらぬような意見にこうして返信していただけるとは、と驚愕したのを覚えている。

 このように、私は、ある意味信頼されていたのである。そして、その信頼に恥じないようにしたいと思った。そこで、私は考えた。どうして、このような人間がいるのか? と。

 そもそも、輝羅鋼、元祖SDとは何か? そこから説明していこう。私は、伝え聞いた知識しかないので間違いもあるだろうが、ご容赦いただきたい。これらは、いずれも、かつて発売されていたものだ。どちらも近年復活したが、特に後者は以前のものは再販されていない。

 ファンなら、誰もが通る道だ。正直に言うと、私もそりゃあ欲しいに決まっている。特に、天地城。超機動大将軍と並べた時、絶対にかっこいという確信が持てている。どちらも、城がモチーフなのだ。機動要塞と三段変形して巨大ロボになるという違いはあるが。

 元祖SDでは、主にSDガンダム外伝やSDコマンド戦記が発売された。いくつかはBB戦士でも発売されていたが、こちらはSD戦国伝がメインである。確かに、心躍らないと言われれば嘘だろう。輝羅鋼というのは、超機動大将軍からしばらく使用され、最近では78代目武者頑駄無と隠密ガンダムエアリアルに使用されたフルカラーメッキパーツだ。ロストテクノロジーと言われることもあるが、水星の魔女のプラモデルの技術を活かす形で復活した。

 これらは、今となっては大変貴重なものである。だから、マニアにとっては延髄ものである。しかし、マニアは大抵の場合塗装や改造も手掛けられる。フルスクラッチができる人もいる。そういう人たちは、当然ながら輝羅鋼を自作できる。再販されているキットは極彩というシール仕様になっているが、これを塗装して当時の輝きを再現する人もいる。元祖SDも、資料を集めてフルスクラッチをするということができるだろう。

 BB戦士は、今でも比較的容易に入手できる。だから、見向きもしない不届き者がいるのだろう。だが、元祖SDやかつての輝羅鋼は、容易に入手できない。それを持っている者を羨ましがり、せめてもの強がりで「自分はこれを知っているぞ」と知識をひけらかすのだ。

 はっきり言っておこう。知っているからなんだ?

 私は、通ぶりたいからSDガンダムに親しんでいるのではない。カッコいいから親しむのだ。なんなら、現在別の小説投稿サイトにて二次創作を行なっている。正直にいうと、そのための資料集めという側面がないわけではない。しかし、コミックワールドはどんな内容か、だが、元祖SDにのみ、輝羅鋼にのみ反応する人間は、はっきり言おう。ファンではない。所謂俺TUEEE自慢をしたいだけの俗物だ。

 私は、主に中古ショップでBB戦士を探している。そこにしか、今は売っていないからだ。ガンダムベースに行こうにも、交通費のハードルは高い。フリマサイトなどは、転売価格が過ぎる上に、送料を負担したくないので使わない。だからこそ、一期一会を大切にしているのだ。買って後悔した方が、買わずに後悔するより余程いいということをTwitterで言われたが、何度もそれを痛感した。赤龍、阿修羅、仁王、不知火。あったのに、欲しいと思った時にはすでに売り切れていたものである。「嘘だろ・・・」と落胆したことは、一度や二度ではない。だがまあそれは、「まあでも、自分より楽しんでくれそうな人に渡ってくれてたらいいか」と思考できる(ただし、全く悔しくないわけではない)。だが、それを単なるステータスとして扱うのは、許せない。中高生が映画上映中に平気でスマホを見るというのを聞いたことがある。これは、絶対にあり得てはならない行為だが、それと同じなのだ。

 私は、アマチュアどころか零細素人ながらクリエイターの立場に立たせていただいている(UTAU投稿や小説投稿)が、その視点で見ると、真摯に向き合ってくれないのは嫌な気分になる。どういうことかというと、作業用BGMにされるのはまだいいのだが、ちょっと曲の最初と最後だけ聴いて聞いた気になるだとか、小説の最初と最後のページだけ読んで読んだ気になるとか、そういうのが嫌なのである。私見ではあるが、これは先ほどの元祖SDや輝羅鋼にしか反応しない者たちと同じだと考えている。

 そういう人たちは、誘蛾灯に誘き寄せられる蛾と何が違うのだろうか。いや、これは不適切か。しかし、私にはこの例えしか思いつかなかった。

 素晴らしいものが、馬鹿発見機のようになってしまっている。この現状は、この世代で打ち切らねばならないものではないだろうか。

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