やまびこ(仮)
水神鈴衣菜
第1話
ある日、山に登った。なぜそうしようと思ったのかはあまり思い出せない。何か人生に絶望したか、逆に幸せなことを嚙み締めたかったのか。ともかくも、僕は一人、近くの山へ行き、その大地を踏みしめた。
山は綺麗だった。僕はたくさんの言葉を持ち合わせているわけではないので、こう表現するしか方法がない。あの、生き生きとした新緑は、僕の心に癒しを与えてくれた。あの日はよく晴れていて、その青は僕を心地よい疲労へと連れて行ってくれた。
そして、不思議なことを経験した。
山に登ったらすること。それは、やまびこだろう。全くの偏見だが、日本人ならば山に登ったら「やっほー」と叫んでしまうことだろう。僕が持つ、日本人に対する全くの偏見だが。それは僕も例外ではなく、周りにだれもいないのをいいことに、息を大きく吸って、向かいの山へと声を飛ばした。
「やっほー!」
青空に声が吸い込まれる。少し声が小さかっただろうか、自分の声が返ってくることはなく── 。
『うるさーいっ!』
僕の耳は声を捉えた。だが、それは僕のものではなく、もっと柔らかく、かわいらしい声だった。僕は耳を疑った。自分の知るやまびこでは、決して似ても似つかぬ現象だったから。
もう一度。僕は試したくなった。今のが幻聴でないと。そこには好奇心、それしか存在しなかった。
「やっほー!」
『だから、うるさーい!』
言葉が変わって、返答がきた。どうなっているんだろう。誰かがいっしょにいたら、今の驚きを共有して、この謎を解けるような協力ができたのかもしれない。だがその時の僕の周りには、人っ子一人おらず、それどころか生き物の気配すらも感じられないほど、静寂が響いていた。
少し怖くなった。だが、それと同時に、声の主を知れば、怖くもなくなる、とも思った。好奇心には抗えず、僕はその声との対話を試みた。
「あなたは誰ですかー!」
『気にかけないでようるさいなあ!』
「誰だか気になるんですよー!」
『ほっといてよもう!』
そこまで会話していて気付いた。その声は山から返ってくるのではなく、頭に直接響いているのだと。
「……誰なんですか?」
試しに、声を張らずに問いかけてみる。すると、
『ああ、やっと静かになった。全く、人間ってどうして山に来ると大声張り上げて意味の分からないことを言い出すのかしら……』
声の主はぶつくさと嫌味を言い始めた。随分面白い人だと思いながら、僕はその人に話しかけ続ける。
「誰ですか」
『え、まだ何か話しかけてるの? あなた不思議ちゃんってよく言われない?』
「いや、そんなには……」
『じゃあ私が不思議ちゃん認定してあげるわ。あなたは変な人!』
「ひどいですねえ、初対面なのに……」
『知らないわ、そんなこと。私にとってあなたたちなんて、来ては帰って来ては帰ってを繰り返すだけの不思議ちゃんばっかりよ』
「ふうん……ここに住んでるんですか?」
『住む……まあ、そうかもしれないわね。なんてったって私はここにずーっといる神様なんだから』
……そう来るか。僕は少し冷静になって、心の中で突っ込んでしまった。とはいえ今考えると、頭の中に声が響く、なんてテレパシーの類を普通の人間ができるわけがない。
「どうして僕に話しかけたんですか?」
『知らないわよ、いつもみたいに大きな声が聞こえたから、うるさいと思って声を上げたら、いつの間にかあなたが話しかけてきたんだもの』
「そ、そうですか…… 」
この神様はお小言がお好きらしい。可愛らしい声とは裏腹に、繰り出す言葉にはトゲがある。
『こっちの気持ちにもなって欲しいわ、勝手に住処に上がられて、勝手に大声を出されて、そして満足したように帰っていくんですもの……』
「確かに、それは嫌になる、かも」
かも、ではない。相当な嫌がらせである。僕の返事を聞いたか聞いていないか、神様は再びぶつくさと文句を言っている。果たしてこんなにも人間に対して文句を垂れる神様を僕は見たことがない── いや、そもそも神様を見たことなど一度もなかったのだが。
「……人間のうるさい声を聞くのが嫌だったら、耳栓でもしたらどうです?」
『みみせん?』
「耳に蓋をするんです。見えるか分かんないですけど、こんな風に」
僕は、耳を手でふさぐジェスチャーをした。耳をふさいでいても、神様の声は聞こえた。
『なるほど! その手があったか』
この神様はあまり考えることが好きではないらしい。これから『うるさーい』と叫ぶことが減ったらいいのだが。
「…… えっと、僕そろそろ帰ろうかなって」
耳をふさいでは『あまり聞こえないな』など呟いていた神様は、その声を聞いて少し黙った。
『勝手に帰れ』
その声には、今までよりも格段に強くトゲが感じられた。
「……寂しいんです? もしかして」
『お前! 私は神様なんだぞ?』
「でもなんか、今『ムカつく』って言いたそうな声してましたよ」
『なんだそれ……』
「また時々来ますよ、そしたらまたお話しましょう」
『……そうか?』
「はい」
神様は黙った。何を言おうか迷っている間に、どこからか強い風が吹き、僕を帰路へと押し始めた。
『早く帰れ、もうじき夕立だ』
「……分かりました」
僕は神様がいるだろう方角に背を向け、山を降りた。
後日。二週間後くらいに、僕は再び山を訪れた。そして同じところで、繰り返した。
「やっほー!」
しばらくしないと神様は返事をくれなかった。おそらく、耳栓をちゃんとやっていたのだと思う。
やまびこ(仮) 水神鈴衣菜 @riina
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