神域

 時折響く地鳴りに追われるようにしながら洞窟を下り続けていると、不意に、耳が水滴の落ちる音を拾った。

 楽器を鳴らすようにタン、タン、と断続的に響く水滴の音が洞窟内に反響している。鈴の鳴る音のようだが、鈴の音よりも柔らかく、音がふわりと広がって美しく響く。

「ねえ、この音って、もしかして」

「うん、水の音」

 あかりの声に檜皮ひわだが答え、隣で朽葉くちばがスンスンと鼻を動かした。

「近いよ、多分。でも……」

 言葉を切り、視線をあかりに向ける。

「蛇の匂いも近くなってるよ。追っかけてきてるんだ」

 あかりは表情を強ばらせ、前を見据えた。赤い光の先導する先は未だ暗い。水滴の音だけが場違いに涼やかな雰囲気を漂わせていた。

「おっと」

 突然蘇芳すおうが何かに弾かれた様にポンと後ろに飛び退いた。

「どしたぁ」

「……」

 つるばみの声には答えず、蘇芳は手を伸ばして目の前の空間に触れる。暫くその姿勢で固まったあと、こちらを振り向いて首を左右に動かした。

「通れん。今までこの道に仕掛けられていた守りとは訳が違う。強力な封が為されておるようじゃ」

「うそ……」

 あかりは試しに蘇芳の横を通り抜け先に進もうとする。しかし蘇芳の示した先に足を踏み出した瞬間にぐらりと視界が揺れて歪み、気がつくと蘇芳の隣に戻っている。

「さて、どうしたものか」

「呑気言ってる場合じゃねーだろ! 小葵こあおいは近い、先には進めねぇ、状況最悪じゃねえか!」

「最悪ぞ。故に橡、お主、人の姿に化けてはくれぬか」

「俺が人になるとなんかあるのか?」

「人になったお主がこの中で一番身体が大きいであろ。お主が呑まれている間に他の者が逃げるのじゃ」

「ふっざけんな!」

「冗談も通じぬのか。つまらん鴉よのぅ」

「この状況で冗談言うお前の神経が分からねぇよ」

 二匹が緊張感無く言い争いを始めた横で、檜皮があかりの足元に寄って座り、前脚を伸ばした。

「どうしたの?」

「……これ、小葵って蛇のだよね。ここの入り口のとは違う」

「おや、聡い童よ。その通りじゃ。小葵様の封は未だに綻び一つ無くこの先の空間を守っておる。たかが一眷属の吾ごときではとても解くことなど出来ぬわ」

「この封って小葵は通れるの? ほら、よくあるでしょ? 術者だけ通す封って」

「ふむ、なるほど」

 蘇芳は少し目を見開き、封に向き直る。

「恐らく無理じゃ。この封は何ものをも通さぬ類いの代物じゃの。さて狸の童よ、これはお主にとって吉報か? 凶報か?」

「……ええと、小葵は後ろに迫ってるんだし、隠れて小葵がこの封を解くのを待つのはどうかと思ったんだ」

「隠れるって、隠れる場所なんてここには無いよ?」

 朽葉が言う。

「そう、そうなんだけど、例えば穴を掘ったりとか、橡さんの目眩ましとかで」

「穴を掘ったところで小葵様は吾等を見逃しはせぬよ」

「俺の目眩ましだって流石に蛇神には通じねぇし、……ちょっとのんびりしすぎたみたいだし」

 橡が身を強ばらせ、固い声で言った。

 小刻みに地が揺れ、パラパラと天井から石の欠片が振り注ぐ。シュー、という空気の漏れるような音が洞窟内にこだました。

「あの蛇、根性あんな。あの図体でこの狭い空間通れるなんて」

「蛇だからの。仕方ない。お主ら、吾の後ろに下がっておれ。童共、けして口を開くでないぞ。それと橡」

 蘇芳と橡は僅かに視線を交錯させ、頷き合う。

「頼んだぞ」

 蘇芳は短く言うと、ふよふよと漂いながら前に出る、と同時に暗がりに爛々と一対の瞳が輝いた。

「よくぞこんな所にまで来たものよ、この賤しい卑しい不届き者どもめが。そこな小娘も、大人しくしておれば見逃してやったというのに……」

 低い声で囁くように言いながら、小葵が暗がりから姿を現す。この洞窟をよほど急いで抜けて来たのだろう。美しく滑らかだった鱗は傷つき、所々剥がれて血が滲んでいた。

「蘇芳」

 低い声が轟く。けして大きな声を出したわけではないのにその声は全員を威圧し、場の空気を凍らせる。

「ここまで此奴らを導いたのはそちであるな。何か申し開きがあれば、喰らう前に聞いてやろう」

「いえ、申し開きなど、あろう筈もありません」

 蘇芳が深々と頭を下げ、静かな声音で言う。

「吾は吾の身勝手により小葵様の言いつけを破り、この者達をここまで導きました。吾の処遇は、どうぞお心のままに。されど、他の者にはどうか寛大なご処置を」

「寛大に、とな」

「は。ここな橡は真神の眷属。手を出せばきっと真神はそれを盾に小葵様に迫るでしょう。またこの童達は天狗の庇護を受けたものでございます。そしてあかり様は」

 蘇芳はここで一瞬口ごもり、

「あかり様は、この件に無関係でございます。灯子様のお血筋故、何か助けにならぬかと、吾の独断で無理矢理ここまで連れてきました。帰りたいと言うのを、聞かずに」

「ちょっと! そんな……」

 思わず声を上げた瞬間、橡の翼があかりの口を塞いだ。

「黙ってろ!」

 耳元で低い声が囁く。

「私は私の意思でここまで!」

「だから黙れ!」

 横目で橡を睨むが、橡は真剣な顔であかりを見つめ返す。

「自分の所為で蘇芳が酷い目に遭うのが嫌だ、とか思ってるのかもしれねぇがそれはお前の思い上がりだ。蘇芳の命はハナから小葵のもの。そこにお前らの理屈も倫理も通じない。蘇芳は小葵に喰われる事を悲観なんてしない。それよりアイツが傷つくのはお前が巻き添えを食って死ぬことだ。分かるか?」

 分からない。首を横に振ろうとしたが、それでもそうなのだとしたら、このメンツの中で一番小葵の怖さを認識していた筈の蘇芳に緊張感がやたら無かったことも理解出来る。

 蘇芳は最悪の場合自分が盾になり、責めを負うつもりだったのだ。……さっき蘇芳が言ったとおり、橡は真神の関係者で、朽葉と檜皮には天狗とやらがついている。つまり、この中でなんの後ろ盾も無く一番危険な立場であるあかりのために、蘇芳は命を張る覚悟をしていたのだ。結界を抜け、この洞窟に足を踏み入れたときからずっと。

「あかり」

 小葵の冷たい目があかりを見据える。

「蘇芳の言うはまことか」

「……っ!」

 あかりは身を強ばらせ息を短く呑んだ。ただ見つめられているだけだというのに、全身を掴まれ、締め上げられているような気すらする。それほど小葵の視線は恐ろしかった。

まことであれば、蘇芳に免じ、そちが今一時この場を立ち退くことを許そう。再度そちが我の前に姿を現した時、我が怒りにまかせそちの全身の骨を砕かぬという保証はせぬがな。さあ、答えよ。蘇芳の言うたことはまこといなか」

 助けを求めようにも、小葵の視線に絡め取られ、視線を逸らすことすら出来ない。

 ここではい、と答えれば私は助かり、蘇芳は小葵から罰を受けて――恐らく死ぬ。けれどいいえと答えれば私は死ぬし、蘇芳も同じく死ぬ。橡曰く蘇芳は小葵に喰われて死ぬ事を厭わない、とのことだったが、それでも、蘇芳が死ぬのを分かっていて、自分だけ助かるという選択肢をとることなんて、したくない。

 ごくりと唾を飲み込み、小葵の目を見返す。その時、気がついた。小葵の目は先程のような激しい怒りを宿してはおらず、かわりに何か面白いものを見るような目であかりを見つめている。

 ――小葵は蘇芳の嘘など見抜いた上で、私が自分の命惜しさに蘇芳を見捨てるかどうか、反応を見て楽しんでいるのだ。

 カッと全身が火照り、小葵を見返す視線に力が籠もる。小葵が不快そうに目元を歪めた。

 と、視界の端から蘇芳が漂ってくるのが見えた。あかりの視界に入り、あかりを見つめた蘇芳はにこりと柔らかい笑みを浮かべた。まるで自分の事など気にするなとでも言うように。

「――わたし、知っています。あなたの隠し事を」

 するりとそんな言葉が口をついて出た。確かにあかりと蘇芳の感覚は違うし、あかりがそれを可哀想だとか思うのは多分、正しくない。けれど蘇芳のあの優しい笑みを浮かべた瞬間、それは嫌だ、と強烈に思ってしまったのだ。たった一晩の出来事ではあるけれど、何度もあかりを助け、おばあちゃんの汚名を晴らしたいという我儘にも近い願いに応え、命の危険を承知でここまで連れてきてくれたのだ。そんな蘇芳がこのまま、わたしの所為で居なくなるなんて。

「何を」

 ギュウと小葵の目が細められ、大きな顔面があかりに迫る。

「適当を申しこの場を切り抜けようと、そう思ったか? まったく浅はかなことよ」

「あかり様、何を申しているのじゃ!」

「黙れ蘇芳。我とあかりが話しておる」

「適当なんかじゃないです。忘れてませんか、わたしが灯子の孫で、調停役を継げるだけの力を持っているということを」

 言いながら膝が震え、鼓動が異様に速まるのを感じた。勿論、これらは全てはったりである。小葵の秘密など知る由も無い。けれど小葵はあかりが調停役に受け継がれる記録をなぞり語った姿を目の前で見ているのだ。そして小葵はあかりが調停の記録に触れられない事を知らない。それならば、このはったりは小葵に対して有効な筈だ。

 あかりは地面を踏み締め小葵の双眸を睨み返した。ここで臆して退いたら、それこそこのまま喰われてしまう。

「わたしはおばあちゃんの仕事を継いでこそいませんが、記録は得ています。過去何百年と連なる調停の記録を。それをずっと確認していたら、その中に霧館に纏わる記載がありました」

「ほう……」

 小葵の赤い舌がチロチロとあかりの首筋を這う。

「それなら何故灯子はそれを先の調停で使わなかったのであろうなぁ。秘密が本当に記録にあったというのなら。なぁ、何故じゃ?」

「――それはあなたが一番分かっているんじゃないですか」

 この答えは完全に賭けであったが、小葵はそれを聞いてただシュウと短く呼気を漏らすに留まった。思わず大きく息を吐きそうになるのを堪える。

「この中に入れてもらえませんか。何か、わたしの持つ記録に役にたつものがあるかもしれません」

「思い上がるなよ、人間風情が」

 怒りに満ちた小葵の声が洞窟内に轟いた。小葵の放った気迫に髪の毛が揺れ、全身に鳥肌が立つ。

「そも、全て人間共が引き起こしたことであろう。人がこの地を穢し壊したのが全ての始まりじゃ」

「人が起こしたことであるからこそ、人に出来る事があるやもと、そう思うのです」

 するりとあかりの奥底から言葉が紡がれる。……この感覚には覚えがある。まさか。

「白樂様にお会いさせてはいただけませんか」

 知らない名前が口をついて出た。

「……なんじゃ、はったりではなくまことであったとは」

「え?」

 小葵は複雑な視線であかりを見つめている。

「人間如きの戯れ言、そう簡単には真に受ける我ではない。しかし白樂様の名が人間じんかんより失われて久しい。それを知るはそれこそ遙かの記録を持つ者のみよ」

 シュウと吐き出される呼気は穏やかな音をしており、あかりに向けられた視線には嘲りも怒りも感じられない。静かな湖面の様に凪いだ瞳が、ひたとあかりを見つめる。

「本当に白樂様の御病を御癒やし出来るのか。記録には、そんな事まで残されておるのか」

「あ、その、ええと……」

 目を閉じて必至に脳内の記録に意識を集中させるが、記録の箱が開くような気配は無い。さっきのはなんだったのか、でも、知るはずのない白樂という名前が出て来たのだ。間違いなく記録の箱が一度は開いた筈なのに。

「まあ良い。出来ねば一呑みにするまでよ」

 不穏な言葉を吐きながら小葵があかりの横へ身体を滑らせた。あかりは壁際に追いやられる。そういえば朽葉や檜皮達は、と視線を巡らせると、ぽかんとした表情で朽葉は蘇芳に首元を摘まみ上げられ、檜皮は橡に背中を掴まれ浮いていた。

「あかりとやら、ついて来い。望み通り白樂様の下へ連れて行ってやろう」

 小葵がこちらには目もくれぬまま冷ややかな声音で言う。

「は、はい。ありがとうございま……」

「おや、礼とは気が早い」

 しゅるりとあかり達が先程阻まれた先に小葵が身を滑らせ進んでいく。小葵の長い胴がうねりながらあかりの横を通り過ぎ、ようやく尻尾が見えた、と思った瞬間その尻尾があかりの腰に巻き付き、くいと持ち上げた。

「うわぁっ!」

 あかりの悲鳴に構わず、小葵の尻尾はあかりを掴んだまま洞窟の先へと進んでいく。

「小葵様!」

「蘇芳、そなたはそこに残っておれ。仕置きは後じゃ。他の者共も我に続くこと相成らぬ」

 低い声が静かに言い渡した瞬間、あかりの首筋を何か毛の塊がくすぐった。朽葉と檜皮だ。とっさに声が出そうになるのをぐっと堪える。

 二匹は首元で少しの間ごそごそと動いた後、服の襟影に隠れるような位置で動きを止めた。くるりと振り向くと心配そうに眉尻を下げた蘇芳と、焦ったような橡の二匹と目が合った。あかりは首を縦に動かし、大丈夫、と口を動かす。と、次の瞬間視界が揺らぎ一面が白い光に包まれた。反射的に目を瞑る。

 目を開けようとすると不意に身体の締め付けが緩み、地面にドサリと投げ出された。乱暴な、と内心呟きながら身体を持ち上げ目を開ける。

「……困った獣共め」

 小葵の双眸があかり――いや、あかりにくっついてきた二匹を見透かし睨み付けた。あかりは二匹を守るように両手を襟元添えた。

「ふん、小癪だとは思うが天狗の囲う稚児共に手は出さぬ。安心せい」

 トゲがある声で言い捨て、小葵はしゅるりととぐろを巻いて一点に視線を向けた。つられてあかりもそちらへ首を巡らせる。

 そこには地上で見たものと寸分違わぬ風貌の泉があった。苔むした岩に囲まれ、澄み切った水が緩やかに湧き出で水面に波紋を作っている。

 しかし上の泉とこの場にある泉とは、決定的な違いがあった。あかりの目の前にある泉は、洞窟の天井にくっついていたのだ。

 泉の中に湛えられた水は何故か重力に逆らい泉に留まり続け、岩の隙間から、もしくは岩を乗り越え溢れた水は、あるいは細い滝のように、あるいは断続的に滴る水滴となって、泉の下に広がる巨大な水溜まりに降り注いでいる。

 その水溜まりは一見すると本当に水たまり程度の浅さに見えたが、背伸びをして中を覗き込めば、その水深は底が見えないほどに深く、夜空を反転したような黒に近い藍色が水底を満たしていた。

「わあ……!」

 顔の横から朽葉の声が聞こえた。変化を解き、元の大きさに戻った朽葉がキラキラした目で上空の泉を見つめている。

「美しかろう」

 小葵がポツリと呟いた。

「穢れに侵され水は腐って澱み、瘴気が凝っていたあの時分よりここまで澄み、清まった」

「え?」

「この地だけではない。人は地を穢し大気を淀ませ毒を撒き散らした。どれだけの神地が人により堕とされたことか」

 小葵の冷たい視線があかりを射貫く。……公害や自然破壊のことなら、歴史の授業でだって触れる事柄だ。ぼんやり眺めていた教科書の事例が急に立ち上がって目の前に現れたような感覚に襲われる。あかりは目を逸らし、ぎゅっと胸元で手を握りしめた。

「あの、……」

「人、確かに良くないとこめっちゃあったって天狗様も言ってたけど、あかりの所為じゃねーじゃん!」

 朽葉が怒りの滲む声で小葵に抗議の声を上げた。

「ちょっと、朽葉!」

「檜皮だってイヤじゃねーの⁉ あかりに文句言ったって過去実際に酷い事した人間に文句が伝わる訳ないじゃん」

「恐れを知らぬ子狐じゃな」

 小葵が目にもとまらぬ速さで朽葉の周囲にとぐろを巻き、鎌首をもたげ朽葉を見下ろす。

「朽葉!」

「あぁっ、待って、ごめんなさい! 朽葉、謝って!」

「な、なんだよ……!」

「天狗の威も万能ではないぞ。天狗など歯牙にもかけぬモノもおれば、そのような理の通じぬモノも世には山ほどおる。我が優しく理の通ずるモノであったことに感謝し、今後そのような振る舞いは慎むが良い」

 シュウ、と呼気を漏らし、赤い舌で朽葉の鼻先を舐めると、小葵はとぐろを解きあかりに向き直った。

「我は人間が嫌いじゃ。それが地を穢した張本人であろうと無関係な者であろうと関係なく、黄泉へ下った者であれ、これから生まれる無垢な幼子であれ一律にじゃ。故に、そなたは我の言動に一々萎縮する必要も罪悪感を覚える必要もない。また我が人間を嫌っておることと、そなたが我を謀った灯子の血縁であり、我の神経を幾度となく逆撫でするが故好いてはおらぬことはまた別の話ぞ」

「はあ……」

 ここまで堂々と面と向かって『嫌い』だと連呼されると、なんだか妙に気が抜けて脱力してしまう。あかりが小葵を見上げると、小葵は不愉快そうに目元を歪めた。

「さてあかり、言葉通り白樂様を御癒やししてもらおうか」

 小葵の言葉に内心どきりと心臓が跳ねる。そんなのあかりに出来る訳がない。けれどそう言ってここに連れてきたもらった以上――。

「待ってください」

 微かに震える声を伴い、今度は檜皮があかりと小葵の間に身を滑らせた。

「あかりさんは『白樂様に会わせてください』としか言っていないです。癒すことが出来るとも言ってない」

 小葵は僅か口を開き、しかし何も言わず首を傾げて檜皮を見つめた。

「ふむ、小賢しいの域は出ぬが、天狗に囲われるだけの事はある。小葵を癒やせずともあかりは約束を違えたことにはならぬ、か。されど我も『癒やせねば喰らう』と約定を結んだ訳ではない。所詮子供の浅知恵よな」

「檜皮、ありがとう。――でも、大丈夫」

 尻尾を下げた檜皮を抱き寄せ、朽葉の隣にそっと移動させる。怪訝そうな二対の瞳に背を向けると、泉に向き直り大きく息を吸った。

『心穏やかに、心身に満ちる水の揺らぎを無くすような想いで』

 さっきからずっと身の内に渦巻いていた声、いや、声と言えるほど鮮明では無い、気配の欠片。記憶の残像。黒い箱を思い浮かべれば、あの時蔵の中で見たのと同じ光を淡く放ちながらあかりに語りかけるように明滅する。……これは、きっとこの記録を受け継ぎ、守ってきた人達の残した記憶なのだ。意思と呼べるほど鮮明ではなく、けれど面影と言うには眩く強い。その中にある一際懐かしくい気配に手を伸ばした。触れた瞬間、幼い頃の、低い視界に聳える、凜と伸びたおばあちゃんの背中がふっと脳裏を過る。

『あかりも覚えておきなさい。アタシの孫のお前なら、この程度でも十分に身を守れるから』

 身の内に渦巻いていた気配と懐かしい声が混ざり、胸中に響いた。

『難しい事ではないよ。そう、深呼吸して、背筋を伸ばす。目? 目は閉じても開けてもどっちでもいいよ。気が散るようなら閉じときなさい』

 うん、分かった。

 幼い頃と同じ返事をして、あかりはゆっくり目を閉じる。

『心を落ち着けて、心臓の所に水が満杯に入ったコップを思い浮かべるんだ。それが溢れないようにして――』

 パン、と両の掌を打ち付けた。水の音が響いていた洞窟に手を拍った音が鋭く響き渡った。

『そう。よく出来たね、あかり! それでチンケな悪いものは大体追っ払える。――それでも追い払えないのがいたら、おばあちゃんが追っ払ってやるさ。安心しな』

 皺だらけの顔がニコッと明るく笑った。

「……か、掛けまくも畏き霧館きりたちのか……神籬ひもろぎの大前に、み、水谷あかり恐み恐みもうさく」

 柏手を打ち邪気祓いを行い、神が顕現する座は整えた。次にすることは神前にて祝詞を読み上げるのが正式な流れだ、ということが自動的にあかりの中にインストールされて、祝詞のテンプレとでも呼ぶべき型が立ち上がる。

 もう三度目だかになるこの感覚は、自分の中に知らない自分の人格が出来て無理矢理口を奪われているような感覚になり、正直あまり気持ちの良いものではない。けれど今はその感覚の中に懐かしい気配が混じっているのを強く感じていた。おばあちゃんの残した記憶が、あかりを助けてくれているのだ。

「此の神籬ひもろぎに鎮まり坐す深淵之白樂遣芲神ふかぶちのはくらくやれはなのかみの広き厚き恩頼みたまのふゆかがり奉りて、此の霧館、弥益益いやますますに潤い――」

 一度流れに乗ると、それこそ水が流れるように祝詞がするすると口から紡がれる。祝詞なんて今まで唱えたことも、ましてや聞いたことすら無い筈なのに。

「――長く平らけく、守給い恵み給えと水谷あかり恐み恐みもうす」

 唱えている自分でも意味を殆ど理解出来ないまま、ふっと紡がれていた言葉が途切れた。

 しんとその場が鎮まりかえる。物音一つしないその中で、唱えた祝詞の残響がふわりと洞窟の天井のあたりに漂っているような気がした。

 そのまま、暫くその場に立ち尽くしていたが、期待に反して何も起こらない。もしかして自分では力不足だったのか、何か間違えたのか、と不安になって視線を下げた。足元では朽葉と檜皮は大きな目を更にまん丸に見開いて無言であかりを見つめ返した。

「こ、これどうし――」

「黙れ」

 低い声があかりの言葉を遮った。声がした方を振り向けば、水溜まりをじっと見つめた小葵が、

「己のしたことが己で分からぬのか。人ならば耳を澄ませ」

 言われた通り耳を澄ませた瞬間、気がついた。

 音がしないというのはおかしい。さっきまで水の流れる音が絶え間なく洞窟内を満たしていた筈なのに。

 息を呑む音が自分でも驚くほど大きく響いて聞こえた。

「なんで」

 水が。

 視線を巡らせると、絶え間なく上の泉から流れていた水が玉となり重力を失ったかのようにふわりと宙に漂っている。大小様々な水の球体が揺らめきながら輝き、ちかちかと洞窟内の僅かな光を反射する。

 こぽ、と耳が微かな異音を拾った。丁度浴槽の栓を抜いたときのような、そんな雰囲気の音。こぽ、ごぽと異音が断続的に、次第に大きく響き出す。足の下で地面がかすかに震えるのが分かった。

 何が、と口の中で呟き、小葵が凝視している水溜まりに視線を向けてみて、あかりは思わず目を見開いた。

 水面に巨大な波紋が広がり揺れている。宙に浮かぶ水滴は一つたりとも水面に触れてはいないのに、だ。

「白樂様……」

「白樂?」

 あかりの問いに小葵は答えない。しかしその声は今まで聞いたことがないほど柔らかく、あの威圧的で冷たい響きとはまるで異なる雰囲気を纏っていた。と、つうと小葵の目元から一筋、水が垂れた。

 小葵が、泣いている?想像だにしていなかった展開にあかりは目を見開いて小葵をまじまじと見つめてしまった。大きな顔面を伝い顎に達した涙の玉は、僅か重力に抵抗するかのように震え、つ、と落下した。

 ポタ、と水滴の落ちる音が響いた。

 それに共鳴するかのように大きく水溜まりの水面がさざめいた。洞窟の中が一気に水音で満たされる。

 ざ、と一際大きな音が響き、水溜まりの中心が揺れて盛り上がり、水柱となって立ち上がる。澄んだ水の向こうに見える洞窟の壁が歪み、揺れている。声も無く目の前の光景を見つめていると、泉に届くかという高さまで立ち上がった水柱が、前触れも無く崩れた。

 爆発するような轟音と共に砕けた溢れた水が大波となってあかり達に迫り来る。咄嗟にしゃがんで朽葉と檜皮を抱きしめたあかりの背を、氷のように冷たい水が襲い呑み込んだ。

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