洞窟

 景色が揺らいで、思わずぱちぱちと瞬きをした刹那、ぱらりと眼前の風景が変化した。まるでテレビのチャンネルを切り替えたときのような、紙芝居をまくった時のような、そうとしか表現のしようがない奇妙な感覚。思わず目を擦り何度か瞬きを繰り返したが、つい先程まで泉のほとりを映していた視界は、黒々と濡れた岩壁に遮られている。

「あれ、さっきまで……。そっか、ここが泉の元?」

 尋ねると、

「多分そうだと思うんだけど、なーんも見えん事には何とも。なぁ、誰か明かりを……」

 つるばみの言葉が終わる前に、足元で青白い炎が、頭上で赤い光の球がそれぞれ灯った。足元の青は朽葉くちばの狐火、頭上の赤は、あかりを庭まで誘導した蘇芳すおうのものだろう。

 この赤い光を初めて見た時は、まさかこんなことに巻き込まれるとは思わなかったな。

 懐かしさすら感じるその光を見ながらあかりは心の中で呟いた。まさか祖母……おばあちゃんが妖怪に関わってて、自分も朽葉くちば檜皮ひわだと仲良くなって、蛇と狼の争いに巻き込まれて、こんな洞窟の中に来るだなんて。

 でも、とあかりは複雑な気持ちで、昼間に見た祖母の遺影を思い出す。

 あの時風鈴を割って彼岸花の奥に落っこちなければ、おばあちゃんとの事を思い出すこともきっとなかったのだろう。

「おや、これは」

 淡い赤を身に纏った蘇芳がふよふよと漂い岩壁に触れる。

「どしたよ」

「……」

 橡の言葉には応えず、蘇芳は何か考え込むかのように首を傾げ黙り込んだ。

「あかり様、先程目覚めた時、記録を読んだ、と申されたな。その記録の内容はお分かりになるか?」

 蘇芳に聞かれ、あかりは眉間に皺を寄せた。

「……記録、が、私の中にあるのは分かる。分かるけど」

 言葉を切って首を横に振る。あの時書物を離れ舞い上がった文字列は、何故か鮮明な記憶として、いや、記憶と言っていいのかも分からないが、確かにあかりの中に残されている。

 その感覚を無理矢理に言い表せば、それはまるで頭の中に一つの半透明な黒い箱が置かれているようなイメージで、その箱の中にあの時舞い上がった膨大な文字列達が緩やかに渦を巻きながらしまわれているのが透けて見える。しかし目を凝らしてもその文字はぼやけ読むことは出来ず、箱を開けようにも蓋どころか一本の亀裂すらも見当たらないのだ。

「駄目みたい。分からない。……ごめんなさい」

「ま、調停記録なんざそうそう簡単に見れるもんじゃない。調停記録ってのは言い換えりゃ妖怪達の因縁貸し借り弱みに古傷、争いの種の集合体だ。扱いを間違えりゃ大惨事になりかねない。厳重な封をされるのも必定だァな」

 慰めるような橡の言葉には何も返さず、あかりは眉根を寄せて俯いた。せめて、この泉に関する情報だけでも何か取り出せないかと念じるが、箱はまるで応える様子がない。

 要するに、認められていないということなのだろう。気絶する前、小葵こあおい青鈍あおにびの前で口をついて出たあれは、箱――記録の意思のようなものがあかりに喋らせたものであってあかりの意思で取り出したものではない。理屈はともかく肌感覚でそのことが理解出来てしまう。おばあちゃんの役目を継ぐだとかそんなつもりは無い筈なのに、なぜだか無性に悔しいと感じてしまった。

「ふぅむ……」

 難しそうな声で小さく唸った蘇芳がくるりとこちらに向き直り、

「少しばかり奥へ下らねばならんようじゃ。十重二十重とまでは言わぬが、この場には小葵様の守りが幾つも張られておる」

「随分と厳重だなぁオイ」

「少々状況が危ういやもしれぬ」

 さらりとした口調で蘇芳が言う。

「小葵様はここに何やら隠し事をしておるようじゃ。吾等眷属にも明かさぬ、重大な秘密を」

「おいこらちょっと待てや」

 焦った声と共に橡が鴉の姿に戻り、バサバサとやかましく翼を羽ばたかせる。

「ヤバいだろ、それ」

「そうじゃな。やばい、の」

「……ヤバいの?」

 あかりが足元に問い掛けると、青白い狐火がぶんぶんと勢いよく何度も上下に動いた。

「天狗様に怒られるぅ……」

「その前に無事に帰れたらね」

 朽葉の泣き声に続いた檜皮の言葉に、あかりは思わず、は? と声を漏らす。

「無事に、って」

「神様の隠し事だもん……不用意に首突っ込んだら何されても文句言えないんだって……」

「まして相手は小葵様であるからのう」

「他人事みたいに言ってんじゃねーよ! 蛇に絞められて死ぬなんてイヤだぞ俺!」

「お主はどうにでもなるであろ。問題はあかり様とそこな二匹よ」

「ちょっと待って、そ、そんなに、ヤバいの?」

「ヤバいぞ」「やばいの」

 二匹の声が揃う。

「神が隠すということは軽々に触れてはならぬということじゃ。寛大な神であれば赦しを請う事も出来るが、小葵様にそんな嘆願が通じるとも思えん」

「畜生、目眩ましをもっとしっかりかけておくべきだったか。俺らが結界を破った事があの蛇に知られるのも時間の問題だろ」

「安心せい。お主ごときの目眩まし、小葵様には通用などせぬよ」

「ねえ、それなら早く」

 逃げよう、と言いかけてあかりは口を閉じた。

「……朽葉と檜皮だけ逃がす、っていうのは出来る?」

 無関係でもいられたこの騒動から逃げずに首を突っ込むと決めたのは自分自身だ。今更危険そうだから逃げるだなんて、情けないことは言っていられない。でも。

「朽葉と檜皮は巻き込まれただけなんだし、これ以上危険な目になんて」

「オレ、ヤだよ」

 ぼうと足元の狐火が大きくなり、パチパチと音を立てた。

「ぼくも」

 ぴょんと跳び上がった檜皮があかりと視線を合わせるように空中に座り、ぽってりとした尻尾を揺らす。

「あかりさんの事、手伝うって言ったでしょ。ぼく達は約束を絶対破らない。それに、今更危険だから身を引くなんて情けない事したくないもん」

「今更仲間外れにすんな! それであかりになんかあったらオレ達、ずっと後悔するよ。そんなんヤだよ」

 強い口調の二匹にあかりは目を見開いた。

「で、でも」

 あかりは最初は二匹を騙して利用しようとした。そんなあかりを二匹は怪我を負いながらも真神の群れから守り、あかりのために『天狗様』から助言を貰いに行ってくれ、しかもこんな所まで着いてきてくれたのだ。そんな二匹を、危険なことが分かりきっている場所でこれ以上連れ回すなんて。

 口を開こうとしたあかりの目の前に、朽葉も飛び上がって檜皮の頭に顎を載せ、

「オレ達あかり好きだもん。最初嘘つかれたことも気にしてないよ。好きな人守る役に立てるのは嬉しいし、好きな人との約束は口約束でも守りきるの。ね。檜皮」

「うん。あかりさん、ぼく達にあかりさんを手伝わせてよ。あかりさんの役に立ちたいの」

 こんな真っ直ぐに、目の前で「好き」と伝えられる事なんて、今までの人生であっただろうか。あかりは口を何度かぱくぱくと動かした後、ようやっと、絞り出すように、

「……ありがとう」

 とだけ呟いた。二匹は満足そうに笑いながら視線を交わし、

「それじゃ行こ! 時間も無いんでしょ」

「おー、なんせお前らがごちゃごちゃと……」

 橡の言葉が終わる前に、蘇芳の水干の袖が橡の嘴を叩き、

「目指すはこの先、洞窟を下った先の先じゃ。案内あないは任せよ。我の後へ」

 蘇芳の纏う赤い光の球がゆるりと動き、下へと向かう道を照らす。あかり達はその赤い光の後に続き、洞窟を底へと下っていった。

赤い光に照らされた岩壁はしっとりと濡れて輝き、所々薄い黄色に発光する苔が蘇芳の赤い光と混じり柔らかな橙色の光を創り出した。赤い光の過ぎた後には朽葉の青白い光が続き、苔は瑞々しく水を含んだあお色に照らされる。

「……なんか、綺麗」

 危険、とあれほど仄めかされても妙に強い危機感を抱けないのは、勿論今までの人生で『命の危機』を本気で感じたことが無いから、というのも理由としては大きいだろうが、それ以上にこの洞窟の清廉な雰囲気にあった。

 真っ暗で湿気た深い洞窟、という不気味な要素満載でありながら、洞窟の中の空気は淀まず凜と澄み渡り、洞窟を満たす闇ですら恐ろしさではなく柔らかにあかりを包み込み、守ってくれているような安心感を与えてくれる気がしてくるのだ。岩壁に触れると、冷たい水が指先を濡らす。その冷たさも濡れた感触もまるで不快感など感じさせず、むしろ濡れた指先がすうと冷え、汚れが落とされ綺麗になったように思えた。

「聖域なのであろう」

 蘇芳が短く言い、

「嫌みな感じが無ぇな」

 橡が答えるように呟く。

「朽葉と檜皮は大丈夫?」

 足元に向けて声をかけると、

「オレここ好きかも」

「……」

 朽葉がはしゃいだようにトントンと跳ねるように歩く一方で、檜皮何か考え込むように黙って俯いたまま歩き続けている。

「檜皮、どうしたの?」

「えっ、あ、うーん……」

 あかりの声に顔を上げた檜皮は言葉を濁し、首を傾げた。

「ここ、神域でしょ?」

「神域?」

「うん、でも神域ならなんで小葵も真神もここに居ないんだろう。……ううん、それ以前に、ここはあの二柱の為の場所じゃない様な感じがする」

「ふうん……?」

「小葵様であれば……いや、似てはおられるが、確かにのう」

 蘇芳が独り言のように呟き、難しい顔をした。

「しかし神域と言うには綻びが酷いぜ。『重なり』を見るにあの小葵が上から覆って体裁を保っている様だが、それがなきゃとっくに散逸して――」

 橡の言葉が終わらぬうちに、地響きと共に強い揺れが洞窟を揺らした。パラパラと欠けた石の欠片や土塊が振ってくる。

「何!」

 思わずよろめき、転びかけたあかりを、飛び上がった朽葉が服の裾に噛みつき引っ張る。

「あ、ありがと!」

「小葵様がお気づきになられた」

 蘇芳の声がピリリとした緊張を伴って響いた。

「マジかよ」

「この狭い空間に、小葵様はそう易々とは入っては来られぬ。急ごうぞ」

「うん、分かった」

 スピードを上げた蘇芳に合わせ、あかりは足取りを速めた。気持ちとしては全力で走りたいくらいだが、広さもなく、カーブも多いこの洞窟で迂闊に走るのは危険だ。急く気持ちを抑えながら赤い光を追い掛け、洞窟の奥へと歩を進めていった。

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