蛇狼相搏つ
美しい泉だった。
木々の生い茂る山の斜面の中に、一か所だけ開けて広場の様になっている場所があり、その中心に泉は湧き出ていた。苔むした岩の隙間から溢れ出ている、ガラスの様に透き通った水が滑らかな稜線を作りだして、絶えず波紋の浮かぶ夜の闇を溶かした様な水面には輝く月が浮かんで揺らめき続けている。あかりにはその泉が何者をも寄せつけぬ神聖さと、同時に全ての者に等しく恩恵を分け与える慈愛とを体現している様にすら感じられた。
そして、その泉から耐えきれず零れた清水は一本の線を作り、川へと姿を変えて森の奥に吸い込まれる様に流れ込んでいた。きっとこの水の流れが山を下る中で幾本にも枝分かれし、麓にまでこの澄んだ水を届けているのだろう。
泉だけを見ている分には、ここは恐ろしい程に美しく神聖で、信仰心などというものとは縁遠いあかりでも胸を打たれるものがあった。……泉だけを見ていれば。
あかりは目の前に広がる光景に眉を顰め、溜息をつく。泉の周りには、それを守るかのように十数匹の狼が立ちはだかり、牙を剥き出している。それに対して、泉に今にも突進しようとするかのように地を幾匹もの蛇が這い、空中は泡に包まれたヤマメやイワナ、名前も知らない小魚達に、
「
「
「あかり殿を」
「あかり様を」
『お連れしました』
二匹の声が重なって、奇妙な和音が生まれる。フッと場の緊張が和らいで、青鈍と小葵がゆるりと首を動かす。
「蘇芳、ご苦労。下がってよいぞ」
最初に口を開いたのは小葵と呼ばれた大きな蛇だった。蘇芳は無言で目を僅かに伏せ、小葵の後ろに下がる。
「……だが、そなた今なんと申した? 我の聞き違い出なければ、あかり、と申していたように思えたが」
「は。小葵様、どうか吾に説明の機会をお与えになってはくれませぬか」
「よい。申してみよ」
「感謝いたしまする。申し上げます、灯子様はつい先日、黄泉の客となってございます。吾の封印を解いたのも、灯子様ではなくこちらに居られるあかり様です」
「ならば、先ほど我とそちとでこちらに呼び寄せたのもこのあかりという娘であるか」
「はい」
「そういう事は早う言いやれ。まったく、気が利かぬことよ」
「……」
「そういう事だ。つまり貴様等の卷属の封印が解かれたのも全くの不可抗力、この泉が貴様等のモノであると灯子殿が決めたわけではない! 残念だったな。分かったらさっさと自分の住みかに帰れ!」
青鈍が唸り声を上げ、小葵は忌々しそうに狼の群れを睨みつける。
「なんとのう……そうであったか。蘇芳、そちの所為の我が恥をかく羽目になった。あまり役に立たぬようなら我が一飲みにしてくれようぞ。心せよ」
「……はい」
小葵に見えない所で、蘇芳が仏頂面を作っている。
「なれど、そうであるならばその方等がここにいて良い理由も無いではないか。早う立ち去れ」
「貴様等が立ち去るのを見届けてからな。貴様の様に性根の腐りきったいやらしい蛇ならば、俺達が居なくなった途端に泉を一人占めしかねん」
「我がそんな事をする訳無かろう。むしろ手前勝手で粗暴なそち等の方がよほど信用できぬわ。この神聖な泉を卑しき獣の毛で汚されては堪らぬ、我が寛容でいられる内にこの場を離れよ。あまり無体を申すようならば、さしもの温厚な我も堪忍袋の緒を緩めるぞ」
「何を言うか、言わせておけば好き勝手言いやがって! 調子に乗るのもいい加減にしろ!」
「調子に乗っているのはそなた等であろう。弱い犬ほどよく吠えるとはよく言うたものよ」
「ええい忌々しいクチナワ風情が!」
「我をクチナワと呼ぶのは侮辱が過ぎるであろう。礼儀を知らぬ犬共めが、分を弁えろ!」
「……ねえ、帰っていい?」
あかりは隣にいた
「いんじゃね? 知らんけど」
橡はそう言って我関せずという様子でケラケラと笑う。
「そちはあかり、と申すのか」
ふいに、小葵が首を巡らせた。黒々とした相貌がひたとあかりを見据える。
「灯子によく似た波を纏っておるの。――しかし、よくみれば何かが足りぬ。蓋をされておるのか。しかしそれも、随分と脆くなっている様じゃのう」
「あ……で、でも祖母からは何も聞いていなくて……」
「それは、どういう意味じゃ」
「小葵様、ここに控えるあかり様は灯子の役目を継承しておりませぬ。吾の封が解かれたのも意図されたものではなく、過ちからなのでございます。それ故、橡の封も解き――」
蘇芳が言い終わらないうちに、小葵が忌々しげに身を震わせた。
「なんという事……。ああ、そうであったか、これは灯子の謀りであったか……! 人の寿命がかくも短いものだとは露ぞ思わなかった……!」
シューシューと音を響かせながら小葵が震える。さながら、堪え切れぬ笑いに身を震わせるように。
「あかりとやら、感謝しようぞ」
小葵が嫌な響きを含んだ声で言った。
「そなたが蘇芳の封を解かねば我は灯子の死も、我が灯子に謀られていた事にも気付かなんだ。ふふふ、ヒトながらようやってくれたものよ!」
「謀られた……だと?」
青鈍が困惑した様に首を引き、その横で白銀が鼻に皺を寄せ、牙を剥きだした。
「……まずいんでねぇか?」
何処にいたのか、橡があかりの肩にとまって囁いた。あかりは橡を避ける為に首を傾けながら、
「やっぱりこれまずい?」
「だいぶな。灯子の策がバレた。これでこの泉に関してもう小手先の誤魔化しはきかなくなった。それに……」
「それに?」
「聞きたい?」
「……うん。なんか嫌な予感するけど」
「小葵も真神共も一応神だからな、人間ごときにいい様にあしらわれたとくれば」
「……」
橡の言わんとする所はそれ以上聞かなくても分かった。小葵と青鈍こそあかりには目をくれていないが、狼の群れの中にも、魚や蛇の群れの中にもあかりに敵意の視線を向けているものが見て取れた。
じり、とあかりは僅かに後ずさる。靴の底が地面をする音がやけに大きく響く様に思えた。狼のうちの一匹が一歩、あかりに向かって踏み出した。
「蘇芳、灯子様の後継者でもないのならばなぜこんな小娘を連れてきた」
鮮やかな橙の、蘇芳によく似た稚児が責める様に言う。
「何を申すか。吾の封を解いたのはここのあかりぞ」
「そなたの封は灯子の謀り。ならば、もうそこな小娘は必要無かろう」
「吾の封が解かれた時に、吾がそれを知る由なぞないのは分かり切った事であろ。灯子様の謀りはここな娘にはなんの関係も無い事」
「灯子の身内であろう」
橙の稚児がふわりとあかりへ近づく。
「今生きている者を害した所で、死んだ者をどうする事も出来ぬぞ!」
「吾等の面目の問題じゃ……!」
きりきりとアーモンド形の黒い目がつり上がっていく。あかりはまた一歩後ずさった。ふっと何かの気配を感じ、横に視線を滑らせると、体勢を低くした狼が数頭、あかりを取り囲むようにじりじりと近づいてきていた。
「あかり、すぐにでも走りだせるようにしておけ」
耳元の囁きに小さく頷いて、あかりは脚に力を入れる。
「何をしようとしている、血迷うたか!」
「そこをどけ蘇芳!」
迫る橙の稚児の前に蘇芳が滑りこむ。あかりはパッと踵を返した。飛びかかってくる狼の眼前に橡が大きく翼を広げた。と、次の瞬間、
「やめよ、この愚か者ども!」
血の底から響く様な低い声がビリビリと空気を震わせた。まるで音がそのまま身体の中を通り抜けていった様な衝撃に、あかりは思わずその場に蹲る。
「ここで怒りにまかせ、そこな娘に手を出すことがいかに愚かで浅ましい所業か。我が眷属でありながら何故そのようなことも分からぬのか!」
「……貴様らもだ。ここであかり殿に手を出せば、それこそ我等真神の体面に泥を塗ることとなるぞ」
小葵に続いて青鈍が唸る。
「ですが小葵様!」
「口を閉じよ。いつからそちは我に口答え出来る程偉くなった」
助かった、とあかりは胸をなでおろしてその場にへたりこんだ。蘇芳があかりの傍に漂ってきて、
「本当に申し訳ありませぬ。まさか、こんな事になるとは……」
「……ううん」
ほんの数時間前には、まさかこの短時間で二回も襲われるだなんて夢にも思わなかった。……そりゃあ風鈴に八つ当たりをした私も悪かったかもしれないけど、と一人ごちながらあかりは溜息をついた。本当に祖母はとんでもないものを残してくれた、と胸の奥に怒りが再燃する。祖母の尻拭いに殺されるなんて、冗談でも笑えない。
「青鈍様、しかしこのままでよいのですか! 灯子の謀りのおかげで、ずっと小葵どもめがこの泉に我が物顔で入り浸っていたのですぞ!」
「それはこちらの科白じゃ!」
「双方ともに止め」
怒りにまかせて吐いた溜息と共に、言葉がするりと口を突いて出た。あの時、朽葉と檜皮を助けるために怒鳴りつけた時と同じ感覚。――しかも、爆発する様な怒りに身を任せていたあの時とは違って、今は奇妙に心が凪いでいる。ずきりと頭に鈍い痛みが走った。
「まるで騙す様な手口で決着を保留にしたのは卑劣な手口だったとは思う」
流れる様に口から出る言葉を、あかりはどこか人ごとのような感覚で聞いていた。――けれど、この言葉は紛れも無くあかりの身の内から湧いて出た言葉だ。あかりはどこか意識の奥底でこの言葉を紡いでいる。
「だけど、あのまま争いが長引けば、あの泉をどちらかのものとしてしまえば、困るのはここに住まう普通の生き物たちだった」
頭の痛みが次第に増していく。脳味噌の中の何かを無理矢理こじ開けられている様な――。
「あの泉がどちらかに所有される事になったり、最悪壊されてしまう様な事態は何が何でも避けなきゃならなかった」
――何故。何故自分の身の内からこんな言葉が出る。何故、この言葉が自分のモノであると分かる。
「だから灯子はあんな手を使ったんだ」
ふっと心と体が重なる様な奇妙な気分に襲われた。頭痛が僅かに治まった。ハッと息を飲んであたりを見渡すと、幾つもの瞳が一様にあかりを見つめている。
「あっ、えーと……」
口をぱくつかせてももう流れるような言葉は出てかない。助けを求めて蘇芳を見ると、小さな眉間に皺を寄せて首を傾げていた。
「――あかり、お前、認めたくないかもしれんがやっぱり灯子の後継者だ」
橡が言った。
「でも」
「灯子の家系は元々幽世の調停役をやってたんだ。何があったか知らんが灯子の数代前で一度途切れて、灯子がそれを復活させた。本人は一代限りのつもりだって言ってたけど……」
「待て橡、そのような吾等は知らぬぞ。そんな存在が居れば、古くよりこの地を治める小葵殿が知らぬ筈はない」
「そりゃそうだ。元はここから遠く離れた地に居たんだと。それが途切れた時にこの地に流れた。この地に根付いてる奴らが知る訳もない」
「ねえ、なんで私が後継者なのさ、さっきのはなんだったの?」
「アレは歴代の調停役達に代々受け継がれるものらしい。簡単に言えば灯子の――いや、灯子も含めた過去の記録の蓄積。過去にどういう争いがあって、それをどうやって解決したか、その膨大な記録がお前の中に刻み込まれてんだ。自覚はないかもしれないが……」
「なんで!」
あかりは叫ぶ。
「そんなのわたしは知らない! おばあちゃんとはほとんど関わりなんてなかったし……!」
『……これを開いたのかい』
ふと、聞いた事も無いくらい優しく柔らかい祖母の声が脳裏に蘇った。頭がまた割れる様に痛みだす。
「そんな、調停役の事だなんて……」
『これはね、色んな妖怪たちが喧嘩した時に、それをどうやって仲直りさせたのかを、ずーっと昔から記録した本だよ』
頭の痛みがどんどん増していって、耐えられない程になっていく。
『でも困ったねぇ……。お前は――』
『お前も狙われてしまう。アタシ一人ならどうにでもなるんだけど』
「おばあ、ちゃん……?」
覚えていない、いや知っている。橡と蘇芳の声が酷く遠く聞こえる。
『あかり、この事は忘れなさい。そして極力ここに近づいちゃいけない。いや、私が近づかせない様にしよう』
祖母の乾いた暖かい手が両目を覆い隠して暗闇をつくりだした。激しい痛みの中で視界が暗転して、スゥッと周りの音が遠くなって消えた。
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