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--私がいるから大丈夫。



そう言われた気がしたのはやはり気のせいではなかったのだと初めて痛感したのはいつだったか。すっかり思い出せなくなってしまったくらいに美玲は優秀だった。

今日も今日とて「はい」と手渡された書類を見て、恋愛感情抜きで美玲にハグしたくなったところだ。



「これ…?」

「私が教わった業務のマニュアル更新してみました。データも共有済みです。あ、原本はいじってません。」



過去に似たような業界で働いていた美玲にはすでに一通りの業務をレクチャー済みだ。だが新入社員にはこれからレクチャーする業務も多く、マニュアルの更新は必須だった。



「なんで…。」



ポカンと美玲を見つめると、美玲は「余計でした?」と首を傾げた。余計なわけがない。むしろこれから美玲に振ろうと思っていたところだ。



「すごく助かる…。」



美玲はあの日のように「よかった」と満足そうに笑った。



「黒田さん、私のこと使うの下手っちょだから。」

「下手っちょ…。」

「できることあったらもっと振ってください。そのための私なので。」



本当にこういうところだ。かっこよすぎる。

進捗を確認すれば美玲に振った仕事は予定より早く進んでいた。追加で仕事を振ると嬉しそうに笑って引き受けてくれた。

…こんなに気持ち良く仕事ができるなんて久しぶりだな。仕事を振ると無表情だったり嫌な顔をする人もいる。指示をして、確認して、指摘して、と続くとどうしても互いに疲れてくる。それは仕方がないと思っていたが、そういう時にこういう笑顔があるだけでこんなにも違うものなのか。俺も見習おう。



定時で上がれるのは間違いなく美玲のおかげだ。



「玉寄さん。飯行こう。」

「奢りですか?」

「奢りです。マニュアルのお礼に。」



美玲が先回りしてくれていなければ、これから俺は残業してマニュアルの修正箇所の洗い出しをしなければならなかった。それが明日以降のチェックだけで良くなったのだから、かなりの工数削減である。



「やった。じゃあ行きます。」



なんて笑う美玲は魔性の女だ。訊かなくても俺が毎回何かと理由をつけて奢るのを知っているはずなのに。そこは俺の見栄なので存分に甘えてくれていいのだが、問題はそこじゃない。



「何の気分ですか。」

「ん〜、寿司!」

「オッケー。」



適当に会社近くの回転寿司に入ると美玲は嬉しそうに寿司を頬張った。



「こっちの寿司屋で良かったの? 近くにチェーンじゃない他の寿司屋もあったのに。」

「知らない所行くと緊張するでしょ? ただでさえ疲れてるんだし、通い慣れたチェーン店の方が安心するから好きです。」



そう返されればもう何も言うことはない。私はこっちが良くて選んだんだということを全面に押し出した上手い物言いだ。

結局美玲はデザートを含めて6皿、俺は10皿、会計は二千円でお釣りがきそうだ。

そう、これが美玲の魔性たる所以だ。奢りなら行くと言うくせに、選ぶ店はいつも決まって安価なのだ。



「もう一個デザート食べたら?」

「ん〜、止めておこうかな。」



そんな取り止めのない話をしながらお茶を啜る。



「……今日は、帰る?」



テーブルの上に置かれた美玲の手に指をそっと絡ませた。最初の頃は振り解かれる心配をしたものだが、それももうなくなった。

手から腕を辿って顔に視線を移動させると美玲は薄く笑んで俺を見ていた。



「来て欲しい?」



なんて。敬語はどこにいった。特に業務時間外は砕けがちな口調が完全に砕ける瞬間が実は好きだ。美玲のプライベートに入った。それが明確に分かる程しっかりと線引きされている。



「俺的には、いつでも。」

「……行こうかな。」



笑みに艶が加わって妖艶になる。ああ、今日も俺はこの魅力にやられっぱなしだ。

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