第6話

 翌日は気合いを入れて出勤した。明るく振る舞うつもりでいたが、生徒にからかわれると冷水を浴びたように胸が冷え、思うような振る舞いができなかった。


 教師らはよそよそしく、教頭からは再度注意を受けた。「そのアカウントで謝罪し、誤解を解くこと」


 これも森川のせいだ。逆恨みもいいところだが、そう思わなければやってられなかった。


 よくここにいられるな。職員室で書類をチェックしながら、智史は他人事のように思った。きっと自分は格好のネタだ。異常性癖者として噂されているに違いない。


 十分おきに「離婚」が頭に過ぎった。離婚さえすれば誤解は解ける。トシくんは浮気相手だとわかってもらえる。晴れて自分は被害者だ。妻の浮気というのは体裁が悪いが、男のプライドを気にしている場合ではない。トシくんと同一人物だと思われるくらいなら、妻に裏切られた惨めな夫でいる方がよっぽどいい。


 でもその前に浮気の証拠集めだ。何か持っていないと、責任転嫁の玄人に慰謝料を要求されかねない。


 開き直ってパソコンで探偵事務所を検索した。どうせ何をやってもネタにされるのだ。だったら自分の好きなことをするまでだ。


 その翌日、また教頭に呼び出されたので、妻との離婚を考えていることを毅然とした態度で伝えた。校長室にいるのは、智史と校長、教頭の三人だけである。


「離婚って、きみ、それはちょっと極端すぎやしないかね」


 教頭は顔をしかめた。別居状態なので、「離婚」というワードに敏感なのだ。


「私は教頭先生に言われるまで、妻のアカウントを知りませんでした。彼女がああいったものを描き、不特定多数の目につく場所に公開していたということが、私は受け入れ難いのです」


 どうせなら教頭にも責任を感じてもらう。


「しかしなあ」


「それだけではありません。あの漫画に違和感を感じたので、妻の部屋を調べたところ、浮気を疑うようなものが出てきました」


 教頭が目を丸くする。


「何が出てきたんです」


 校長が身を乗り出して聞いた。ふん、下衆が。大サービスだぞ。


「アダルトグッズです」深呼吸し、続けた。「あの漫画は、浮気相手との関係を描いたものだったのです」


「な」


 校長と教頭が絶句する。


「ですが森川先生についての投稿は、私が仕事の話を家庭に持ち込んだことが原因です。多大な迷惑をおかけしたこと、まことに申し訳ございません」


 深々と頭を下げた。


「妻は要求に応じる気はないそうです」自然と声が震えた。「もう、私にはどうすることもできません。妻とは離婚します。この学校とも無関係になります。私にできることはそれだけです。本当に申し訳ございません」


「槙野先生、顔をあげてください。事情はわかりました。我々も対応を考えます」 


 校長が優しい口調で言った。


「しかし要求に応じないというのはなあ」


「教頭先生、こればかりはやむを得んでしょう。槙野先生の心情を察しておやりなさい。私だったら夜も眠れません。槙野先生もそうでしょう」


「……はい。妻に、あんな一面があるとは思いませんでした。私と妻は……その……」


「至ってノーマルなプレイだったと」


 校長が真面目な顔で言う。


「はい。あの漫画を見たときは、頭が真っ白になりました。これは誰をモデルにして描いたんだろうと」


「浮気相手に心当たりは」


「いえ……全くないので、探偵に依頼する予定です」


「そうですか。わかりました。漫画の件については私が責任を持って善処します。槙野先生は家庭の問題に専念してください」


「ありがとうございます。感謝します」


 校長室を出ると、職員室の視線が一斉に智史に注がれた。憐れみを含んだ目で微笑む者もいる。


 こいつら、聞き耳立ててたな。智史は確信した。頭を下げ、ほくそ笑んだ。




 妻とはこれまで通り接しながら、粛々と浮気調査を行なった。

 依頼から三日後、探偵事務所から連絡があった。智史は結果を聞きに、仕事おわりに直接探偵事務所へ向かった。


「自宅へ入っていくところは撮れたんですが、これは浮気の証拠としては弱いです。ラブホテルなら確実な証拠になるのですが」


 ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。相手の男は日焼けした遊び人風で、品のない黒ジャージを着ている。……隣人かよ。智史は胸をかきむしりたくなった。


「自宅に隠しカメラを設置するか、盗聴器を仕掛けるか。盗聴器なら、高性能のものなら隣室の音もキャッチできるので、効率がいいと思います」


「こいつと佳奈のセックスをっ、俺に聞けって言うんですかっ」


 筋違いな怒りを担当者にぶつけた。もう一度写真を見る。そういえばこいつ、顔を合わせるたびにニヤニヤと笑っていた。あれは何も知らない亭主を嘲笑っていたのか。


「メールやSNSのやり取りに、肉体関係を窺い知れる内容があれば、それも証拠になりますが」


 担当者の事務的な口調にも神経が逆撫でした。一緒に怒ってはくれないのか。気の毒に思ってはくれないのか。どうして突き放す。客商売だろう。


 事務所選びを間違えたと思った。もういい。浮気相手は判明したのだ。あとは自分でなんとかする。探偵など、大人を割高時給で雇うだけのこと。無駄遣いもいいところだ。


 調査費用を支払い、智史は事務所を出た。家に帰る気になれず、パチンコ屋の駐車場に車を入れたが、店内には入らなかった。今は他人の貧乏ゆすりも見たくない。


 それでもインスタは見てしまう。相手が隣人だと分かった上で見ると怒りもひとしおだ。フィクションだと言うならあの男の化身を使え。不倫を描け。浮気とは別の怒りも湧いた。


 そのとき画面上部にメッセージが表示された。以前勤めていた学校の同僚から、「相談したいことがあります。ご迷惑でなければ、会ってもらえませんか」


 怒りがスッと引っ込んだ。軽く一年は連絡を取っていなかった。よほどの悩みなのだろう。智史は電話を掛けた。


「あ、槙野先生、急にごめんなさい」


 思い詰めたような声だった。


「いえ、何かあったんですか?」


「私、きっとこの仕事向いてないんだと思います。生徒に嫌われてるんです」


 智史は姿勢を正した。


「そんなことないですよ。西校の子達はみんな豊田先生のことが好きでした。きっと今の学校でも豊田先生は人気者ですよ」


 ヒクヒクと泣き出した。妻と違い、こちらまで悲しくなってくる。自分にできることがあれば力になりたい。 


「話、聞きますよ」


「ありがとうございます。私、どうしても辛くって、槙野先生なら、相談に乗ってくれると思って連絡したんです。ごめんなさい、急に」


「いえ、全然かまいません。俺も久しぶりに豊田先生と話したいし」


 妻の浮気を知ってから、頭の中はそれ一色で、空気を入れ替える良い機会だと思った。


 元同僚の豊田理沙とは居酒屋で会い、ごく自然な流れでラブホテルへ行った。誘ったのは智史だが、そういう空気を出したのは彼女だった。潤んだ瞳で見つめては、ベタベタと体を触ってくるのだ。彼女は智史の好みではなかったが、ヤらせてくれると言うなら断るわけはなかった。性欲は人並みにあるのだ。それにたまには、エッセイ漫画を意識しないでセックスしたい。


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