第5話

 一睡もできずに出勤すると、職員室が騒がしかった。教師らは電話対応に追われている。


「何かあったんですか?」


 デスクにつき、隣の教師に問いかける。彼は鬱陶しげに智史を睨むと、ちょうど鳴った電話に出た。


 一体なんだというのだ。挨拶をしても、みな智史の目を見ようとしない。

 間も無く教頭に呼び出された。いぶかりながら校長室に行くと、森川がいた。


「単刀直入に聞きます。槙野先生、これはあなたの奥さんのアカウントですか?」


 教頭がクリアファイルを差し出す。ドッと心臓が跳ねた。一番上の用紙には、妻のインスタアカウントが印刷されている。咄嗟に中身を取り出し、めくっていく。他はM先生登場回の投稿画面だった。


「朝から抗議の電話が鳴りっぱなしです。うちの学校が特定されたんです。槙野先生、これはどういうことですか。森川先生はこんなこと、言ってないとおっしゃっていますよ」


 教頭の言葉が耳をすり抜けた。妻のインスタがバレた。それはすなわち、夜の営み編も同僚に見られているというわけで、智史は恥ずかしさに発狂しそうになった。M先生登場回などどうでもいい。トシくんは自分ではない。自分はあんな言葉責めなどしない。まずそれを弁明したい。でなきゃ仕事にならない。生徒に広まるのは時間の問題だ。変態教師、そんな言葉が浮かんだ。……ああ、俺は言葉責めを変態行為だと思っていたのだな。だからできなかったのだな。智史は場違いに納得した。


「槙野先生、どうしてくれるんです。取材の電話まで来ているんですよ。このままではうちの学校の評判はガタ落ちです。在校生にも説明しなきゃなりません」


「在校生への説明は必要ないかと」


 森川が答えた。


「私はこんなこと言いません。生徒ならわかります。保護者にも説明してくれるはずです。槙野先生」


 智史はハッと我に返った。森川を見る。軽蔑も怒りもない。森川は普段通りの無表情で、静かに言った。


「この作者には、誤解を招く表現をしたことを謝罪させてください。いいですね」


 森川は校長と教頭に頭を下げ、颯爽と出ていった。 


 智史は立っているのもおぼつかない。脳みそを針で突かれているような痛みとめまいがした。


「しかし槙野先生、他の先生を悪く描くのはもちろんですが、夫婦の営みまで曝け出すのもいかんでしょう。わたしらはそれにも驚いているんですよ。曲がりなりにも教育者なんですから、生徒の模範でないと。こんなSNSの使い方を彼らが真似したらどうするんです」


 曲がりなりにも? 頭に来た。言うに事欠いて。だから女房に逃げられるのだ。乱暴な気持ちになり、つい心の中で毒吐いた。


 苦痛な一日だった。同僚はよそよそしく、無邪気な生徒にはからかわれた。


「マッキーってドSなんだあ」


「めっちゃアブノーマルじゃん! 手錠なんか使っちゃってさあ」


 智史は頬を染めて黙り込む他なかった。厳しく叱っても、お前が何言っとんじゃいと思われそうで、喉にブレーキがかかるのだ。


 妻には強く抗議した。感情が爆発し、声を荒げた。


「学校に抗議の電話が掛かってきてるんだ! いますぐ謝罪して、全部作り話でしたって説明してくれっ!」


「ちょっと、大きな声出さないでよ、隣の人に迷惑でしょう」


 しおらしく謝ればいいものを、宥めてくるとは。ますます腹が立った。


「わかってるのか? 学校の評判が落ちてるんだ。訴えられたっておかしくないんだぞ!」


「私がいつあなたの学校名を書いたのよ。全部憶測でしょう? 謝ったら認めたことになるじゃない。そっちの方が学校に不利なんじゃないの?」


 妻の反論は理屈に合っていて、それがまた癪に障った。校長室で、自分はそう言うべきだった。


「私、謝罪なんか絶対しないからね。これはエンターテイメント。悪いのは現実とごっちゃにする読者でしょう。ほんと呆れる。普段はエロ漫画に喜んでるくせに、こういう時は常識人ぶって」


 憎々しげな表情が醜かった。自分の妻はこんな顔をしていただろうか。


 智史は急激に気持ちが冷めるのを感じた。巾着袋を見つけた時は、浮気なんて信じたくなかった。嘘であればいいと思った。しかし今は、その方が都合がいいのではと思い始めている。離婚を意識したからだ。


「ねえ、ちゃんと自分は関係ないって説明してきてね。私だって誤解されたままは嫌なんだから」


「誤解?」


「だってそうでしょ。私たち、こんなセックスしたことある? これはフィクションなの。妙な噂立てられたらたまんない。絶対ちゃんと否定してね」


 妻は鼻息を荒げて言うと、大きなため息をひとつつき、急にか細い声で言った。


「ちょっと色々考えたい。一人にさせて」


 自室へ行ったと思ったら、着替えて出てきた。出かけるらしい。


「どこ行くんだよ」


「一人になりたいの」


「だから、どこに行くんだって」


「どこでもいいでしょ」


 ぐすんと泣き出し、ギョッとした。完全に被害者モードだ。妻はどこかで精神年齢が止まっている。いまだに嘘泣きが通用すると思い込んでいる。


「ごめん、いっぱいいっぱいかも。先に寝てて」


 なんだ、いっぱいいっぱいって。拙い言葉選びに腹が立った。同情を引こうとしているのが見え見えだ。いつまで守られたい体質でいるつもりなのか。


 浮気相手に慰めてもらうんだろうな。妻が出ていくのを、智史は白けた気分で見送った。


 悔しくはない。変態同士、好きなだけヤリまくったらいい。


 何もする気が起きないので、ダラダラとスマホを弄った。怒りを助長するだけとわかっていても、エッセイ漫画を覗いてしまう。荒んだ気持ちが浮上するわけがないから、いっそとことん自分を追い込みたいのかもしれない。


 ふん。どうせロクな男じゃない。大方販売員か配達員だろう。妻が出会う男など知れている。


「はっ、エロ漫画かよ」


 トシくんのセリフを嘲笑う。しかし自分を笑っているように思えて、頬が引き攣った。

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