狸穴荘(まみあなそう)

「いやあ、ほんとにすいませんね、山倉さん。夜間の稼ぎ時に邪魔しちゃったみたいだし。今度なんかの折りには電話して使わせてもらいますよ」私は決してあり得ないことを口にした。お礼は確かにしたいのだが当分出来そうもないし、本当は彼の電話番号を聞き出したかったのだ。どこかでまた会って〝隠れた事情〟を聞いてもらいたかった。しかし無理強いは出来ない。何度も必要以上にお辞儀をしては私は車から降りた。ところが山倉は自分も居りて来て車のドアをロックする。

「いいってことですよ、田中さん。それよりさ、家教えてよ。こっから近いんでしょ?一応場所確かめといてまた来るからさ。今は車ほったらかしに出来ないし、部屋まで上がるなんて云わないからさ」「いやいや、上がってもらっても構わないけど、むさい部屋だし…しかしそう云うんなら…じゃ、ちょっと一緒に」そこからわずか10数メーター離れた、信号を左に曲がって数軒先にある築ン十年という古アパートへと私は彼を案内した。東京23区内によくぞ残ったと云わんばかりの部屋数8つの木造アパート、その2階の奥の部屋を私は指し示す。「た、たぬきあな、荘…?」「狸穴荘(まみあなそう)と云うんだよ」一応はベランダ式アパートなのだがこちら側の側面に掛かった看板は字が消えかかっていて、それを見づらそうにしながら山倉が聞くのに、その彼の表情を見ながら私はそう答えた。さすがに苦笑いを顔に浮かべながら「いやあ、レトロな雰囲気のアパートだね。2階の奥だし…いいんじゃないの」と何とか誉め言葉を口にしてみせたが顔は閉口感を示している。それも無理はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る