第五話 呪い発生
月曜日の朝、目が覚めると全身が気だるい感覚に八乙女忌子は襲われた。土日と神楽を舞った影響はあるかもしれない。しかし、それよりも土曜日に目の当たりにした光景が忌子の脳裏から離れていなかった。血にまみれた男性。それは今すぐにでも救助が必要な人であった。頭ではそれがわかっていたのに、忌子はそこに近づけなかった。穢れ。それをなによりも避けるように徹底的にたたき込まれた忌子にとっては、血を吐いて倒れている男性は最も近づいていはいけない存在だった。
あの倒れた男性は助かったのだろうかと心配になる。もしあの時点ですでに亡くなっていたとしたら。忌子は思い浮かべただけで身震いする。日曜日も祭りがあるため、神社の人が総出で清掃にあたったが、そのときも清司から近づかないように言われてしまった。
その日の夜には血の跡はほとんどわからないようになった。それにもかかわらず清司は特殊清掃の業者に依頼し、清めの儀式も行うらしい。せめて儀式だけでも手伝いたいと申し出たが、それすら断られてしまった。
おそらく穢れに触れさせないよう、忌子を思っての言葉だろう。頭では理解できている。しかし忌子にとってはすでにおまえは穢れた存在だから私に近づくなと言われているようだった。そのため週末も社務所で清司と過ごすのではなく、また離れの方に泊まってしまった。
カーテンを開けると、空一面に雲が広がっている。この時期なら五時でもすでに日は出ている。それなのに日光をまったく感じられないほどの厚い雲が広がっていた。
少しでも陽の光を浴びて気持ちを持ち上げたかったが仕方ない。忌子はため息をつきながら風呂場へと向かう。せめて念入りに体を洗うことで身と心を清めることにした。
一時間かけて風呂から上がる。これで少しは土曜日の出来事は浄化されただろうか。朝食を取り、神棚のお供物を取り替えながら考える。後、数日の期末試験を乗り越えれば試験休みからの夏休みに入る予定だ。そうすれば、また神社の奉仕に専念できるだろう。それで穢れが祓えればいい。忌子は気持ちを新たにして家を出た。
今にも雨が振りそうな重く厚ぼったい曇り空の中、龍神川を越えて学校に向かう。いつもより早い時間に教室に入ったが、思ったより生徒の数が多い。試験直前でも勉強したり、試験に出そうな問題を予想している生徒がいて教室内が騒がしい。
教室の前から二列目、真ん中の自分の席に座る。
「おはよう。美友紀」
美友紀はノートを目の前に開きながら、ぶつぶつと英単語をつぶやいている。集中しているなら話しかけるのは悪いかも。そう思い、自分もスクールバッグを机に置き、中から筆記用具とテスト用にまとめたノートを取り出す。
「そうだ。忌子。プレゼント用意したから机の中を見てよ」
「プレゼント?」
いきなり本名で呼ばれて訝しむ。それにプレゼント? 誕生日でもないのに。そんなことを考えながら美友紀の方を見て驚く。ノートから顔を離した美友紀はこちらに向かって笑いかけている。しかし、どこか焦点が合っていないような。口角は上がっているが目は笑っていないような異様な雰囲気を漂わせていた。
「どうしたの? 大丈夫?」と声をかけながらも机の中に手を入れる。中からは手のひらに乗るくらいの木製の箱が入っていた。上の方に切れ込みが入っていて蓋になっている。
蓋を開けると目に飛び込んできたのは、赤黒さと灰色が混じった物体だった。遅れて鉄臭さと強烈な獣臭が鼻の奥に襲ってくる。
思わぬ臭気に手を離してしまい箱を落としてしまった。机の上のスクールバッグにぶつかった箱は傾き、中に入っていたものが机の上に落ちる。同時に冷たい感触が顔や腕に感じる。
それは血まみれのネズミだった。正確に言うとかろうじてネズミと判断できるものだった。顔はつぶされ、おなかからは内臓が飛び出している。長く伸びているみみずのようなしっぽと、全体を覆っている焦げ茶色の体毛から判断できた。
息だけが喉から漏れ出て声が上げられない。箱から血が流れ出てきて机を汚していく。
ふと自分の体を見ると服や腕にも飛び散ったネズミの血が付着していた。
血。
頭の中ではその文字だけが駆け巡る。しかし、口から出たのはただの叫び声だけだった。
美友紀の方を見ると相変わらず口角だけが上がった笑みを見せている。周りを見渡すと叫び声を聞いたからか、みなこちらを見つめていた。しかしみんなの表情を見て背筋が凍る。
同じように全員が口角だけを上げた笑みを浮かべてこちらを見ていた。笑い声を上げることもなく、あれだけ騒がしかった教室が今は静寂に包まれていた。
異様な雰囲気に圧倒され、自然と足が教室から飛び出そうとする。今すぐにでも駆け出したい気持ちは渦巻いているのに、少しずつしか動けなかった。
じりじりと出口に向かおうとしてもクラスメイト全員がこちらに表情を変えないまま顔の向きだけを変えて、こちらを見つめてくる。教室を出た瞬間、気づかない間に止めていた息ができるようになった。息を荒くしながら水道へと向かう。
血を落とさないと。
自然と足が速くなり、廊下を走る。
脇目も振らず走ると廊下の角から人が飛び出してきた。避ける間もなくぶつかり目の前に火花が飛ぶ。
「ごめん? 大丈夫?」
その声は秀俊だった。心配そうにこちらを見ている。
「あっ! 顔に血が」
そう言いながら彼は自分の体を確認する。自分の血が忌子に飛んでしまったのではと心配しているようだった。
しかし、その言葉を聞いて顔にも血が飛び散っていたことを知る。彼を無視して女子トイレに駆け込んだ。
鏡を見ると顔や制服、腕のいたるところに細かい血しぶきがついている。蛇口を目一杯にひねり腕や顔、制服を石鹸で洗い始めた。
死んだ動物の血。それは巫女として働く自分が最も触れてはいけないものだった。穢れがある状態では巫女として奉仕できない。
清司の顔が頭をよぎりながら、トイレで体を洗い続けた。
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