希望の死

師走 先負

希望の死

プロローグ

天才の失墜

 春暁の寒さから秋月あきづきは机に突っ伏した体を起こす。昨日の途方もない研究の疲れはさして取れていない。秋月はゆっくりと椅子から体を離し立ち上がる。その痺れて動きにくい体でフラフラとラジオカセットの下へ向かい、ボタンを押す。

「In Ewigkeit lass' ich nicht ab!」

 リヒャルト・ワーグナーのゼンタのバラード。おどろおどろしくも美しい旋律、情動的で今のAI共には絶対に出せない雰囲気、全てが完璧で中毒的だ。少しばかり聞き入っていたが、それは一つのインターホンの音で終幕を迎える。脳を置き去りにしてすっかり覚醒した体は玄関に向かって迷いなく突き進む。そして危機感など抱かぬままドアをゆっくりと開ける。

「すみません。秋月信繁あきづきのぶしげさんですよね。2034年5月8日午前6時08分、家宅捜査及び動物愛護法違反と人道法違反の罪で逮捕状が出ています。署までご同行願いますか?」

 警察官と思しき人間の横にはそれぞれ捜査令状と逮捕状を片手で持ちヒラヒラと動かしているアンドロイド。彼女らは実に耽美的で、目や鼻といった顔のパーツや髪の毛、肌の色さえ模倣出来れば人間と見分けがつかない程だ。秋月は突拍子も無い出来事に何も言うことが出来ない。様々な考えを巡らせようとするが覚醒のしない脳が全てをシャットダウンした。とりあえず彼女らから令状を受け取り、訳も分からないまま警察官について行く。既に彼女らは秋月の部屋に押し入り、研究道具や論文の指紋を取りつつ次々と押収する。それは人間の行う鑑識とは違い、速く、正確で、効率の良い代物であった。秋月が警察官に手錠をかけられた時には秋月の部屋はもぬけの殻も同然となる

「私が何をしたというのだ。」

秋月は伽藍堂とした部屋にその言葉のみを残し、警察署へと行った。


その瞬間、AIを使用しない稀代の天才医科学者'秋月先生'は消え去り、多くの人間を不幸に陥れた民主主義最大の敵'秋月信繁'が生まれ落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る