哀悼歌

東晶

哀悼歌

 彼女のバイオリンを初めて聴いたのは高校の学校祭の有志発表だった。適当に露店で飯を食べて、適当に友達と駄弁りながら校内を周ろうとしていたときにふと、体育館から聴こえてきた透明な音。

 人間の声に最も近いとされるそれから紡ぎ出される音階は観客の――そして僕の心を鷲掴みにして離さなかった。気づけば体育館の隅っこで、バイオリンを弾く真似をする友達を無視して聴き惚れていた。

『タイスの瞑想曲』

 この曲名を僕はこの日、初めて知った。

 そして彼女の名も、初めて知った。


 多分、恋をしたのだろう。

 彼女の音色に。彼女の姿に。惚れてしまった。さながらギリシャ神話のタイスのように僕を魅惑の渦に巻き込んだ。それくらい僕にとって官能的で、刺激の強いものだった。

 彼女の演奏を聴いたときから、僕は音楽を、彼女を、意識するようになった。

 調べてみると彼女は有名なコンクールで最優秀賞を何年も連続で獲得しているそうだ。

 ――純粋に、彼女を尊敬した。

 僕は生まれてこの方なにか一つを極めたことは一度もない。ただ一日一日をただ無気力に、娯楽に勤しむ僕とは大違いだった。

 学校での彼女を見ていれば、いつも何かしらのテキストを開いているし、先生からも信頼されていた。

 そんな彼女を見て、僕は変わりたいと思った。

 だから全く手をつけていなかった勉強を始めた。少しだけオーケストラを聴きに行ったりもしてみた。高校生におすすめの小説も頑張って読み切った。

 少しずつ僕の頭の中に新しい知識が入っていくたびに、彼女が見ている世界に近づいているような気がして、気分が高揚した。僕は自身の存在意義に自信を持てるようになっていた。

 気づけば高校に入学して三回も桜が咲いた。

 突然変わった僕から離れた友人がいたが、新しくできた友人もいた。

 紅葉がきれいな日、もう既に慣れ親しんだ生徒会室で彼女はこう言った。

「君は一つの曲を人の生涯だと思ったことはあるかい? ほら、例えばベートーヴェンのロマンスだったら最初のFから始まる旋律はこれからの新生活を心待ちにしているようだ、とか。そんな感じに」

 最初、僕の尊敬する友人は何を言い出すのだろうと思った。

 僕にとって曲は曲であり、それ以外に成り得ないものだった。音楽に精通している彼女だからこその独自の解釈は僕には理解しがたいものだった。

 だから僕は犯してしまった。一つの、大きな過ちを。

「無いですよ。そんな」

 彼女の失望と、哀愁が混じった眼差しが今でも忘れられない。

「……そうよね」

 それっきり、彼女は僕の眼の前に現れることはなくなった。

 聞けば彼女はイギリスへ行ってしまったらしい。確か、彼女は自身の音楽観が理解されないことを苦しんでいた。それをわかっていたはずなのに、僕は――。


 高校に卒業してからもう何十回も桜が咲いた。

 彼女は世界中で認められるバイオリニストになっていた。

 そして彼女は今日、新聞の前面を飾っていた。僕はその新聞と共にポストに入れられた、一通の便箋を手に取った。

 手紙には簡潔にまとめられた近況報告と思い出したように書き殴られた一つの質問があった。


『久しぶりだね。最近はコンサートが多くて大変で、日本に帰ることができないよ。そっちはどうなんだい? 会社は結構順調だって知り合いから聞いたよ。

 PS最近不安に思うんだ。私という人間はどんな旋律を奏でている?』


「君は人を奮い立たせるような、芯のある一輪の世界で一番美しい花タイスが咲くような可憐な旋律を、君は奏でていた――あぁ、願わくばもう一度君のバイオリンが聴きたいよ。あの時のように」

 この願いが叶えられることはもう無い。

 僕は傍に置いてあったバイオリンを手に取った。

 僕の短すぎるほどの旋律届けるために。彼女に、哀悼歌を。

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哀悼歌 東晶 @nemuitami

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