第8話 嫌悪感は確かにあります
困惑しているタマキの左胸から、シータは『飢餓』のバッジを取り外した。続いて自分の胸元についている『舌禍』のバッジも外し、ポケットに突っ込む。
慌てたのはタマキのほうだ。
「ちょっ……災厄のバッジには常時着用義務が……!」
「非常時はその限りではありませんよ。それに忘れたんですか、タマキ後輩。この町には法律はないんです」
「常時着用は市役所職員の職務上の規則では!?」
バッジを握り込んだまま手を高く上げて、こちらに返してくれないシータに、タマキは意地悪をされた子供のように手を伸ばす。そんな攻防を繰り広げながら、シータは淡々と弁明を始めた。
「タマキ後輩、落ち着いて僕の言い分を聞いてください。これにはやむを得ない理由があります」
「り、理由……!?」
「先程のおばあさんの様子を見たでしょう? この辺りは、そもそも厄獣に対して嫌悪感を持つ市民が多いんです。正直にバッジをつけてノコノコ聞き込みに行ったら、相手にされないことは明らかです」
シータの言い分はもっともなものだった。だが、『飢餓』のバッジは自分のためではなく周囲の安全を確保するために重要なものだ。軽々しい理由で外していいものではない。
「ですが……」
なんとか反論の言葉を探そうとするタマキに、シータは畳み掛けた。
「それに、恐らく生活安全課はバッジ着用の上で聞き込みをしています。彼らがやっていない方法を試すのは有意義なことでは?」
「うっ」
「それに昨日、乱闘騒ぎのときに一時的に上着を脱いでいたらしいじゃないですか。あれはよくて今回はだめなんですか?」
「ぐうっ、あの時は……ムラサキを守ろうと思って頭に血が上って……」
理詰めで説得され、タマキは一度も優勢に建てないまま敗北した。
「……分かりました。でも、必要になったらすぐに着用しますからね」
「もちろんです。バッジはお返ししますね」
がっくりと肩を落とした姿勢で差し出されたタマキの手に、シータは『飢餓』のバッジを握り込ませる。タマキはそれを失くさないように慎重に、自分の上着のポケットにしまい込んだ。
「さて、では聞き込みに行きましょうか。先輩である僕の勇姿に期待していてください」
渾身のドヤ顔で言いながらシータは路地から出ていく。
前にもこんなことがあった気がする。
タマキはそう思いつつも、シータを止めることはできず、そのまま彼の後をついていった。
そうして何が起こったのかというと、案の定の修羅場であった。
「なんだてめぇ、喧嘩売ってんのか!」
「売っていません。少しお話をしようと思っただけです」
「お話だぁ? そもそも、てめぇが吹っかけた喧嘩だろうが!」
「いいえ。僕は、『昼間からお酒を飲んでいる皆さん、少しお話よろしいでしょうか』と事実を述べたのみです」
「あああん!?」
「ぶっ殺すぞ!?」
みるみるうちにヒートアップしていく酔っ払いと、眉一つ動かさずにそれに対応するシータ。タマキはその後ろで、あちゃーと額を押さえていた。
今日のシータはかなり頼りになる行動をしていたから、もしかしたら無事に話が進むのではと思っていたが、シータの対人スキルに期待した自分が馬鹿だった。
とにかく、なんとか場を収めて、シータを回収して逃げなければ――
そう思いながらタマキがタイミングを伺っていると、ふと生気に満ちた女性のしゃがれ声が鋭く飛んできた。
「あんたら、昼間っから騒いでるんじゃないよ! 仕事はどうしたんだい仕事は!」
「うわっ、出やがった」
「ババアこそ仕事しろよ!」
「うるさいね! あたしゃこれが仕事だよ!」
杖を振り回しながら近づいてくる老婆に、酔っ払いたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
「もうババアなんだから暴れんじゃねーよ!」
「気をつけねえと脳の血管千切れんぞ!」
「うるさいねぇ! 心配してくれてありがとよ!」
悪態の中に労りを滲ませた言葉を酔漢たちは老婆に投げかけ、老婆の方も乱暴なフレンドリーさで返事をする。煙たがられつつも彼らから慕われている存在だということはすぐに分かった。
「まったく……!」
仕方なさそうに息を吐く老婆に、タマキたちは頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました」
「助かりました」
「あーいいんだよ。あんたら余所者だろ? 余所者の『人間』とは諍いを起こさないってのが私達の数少ないルールでね」
『人間』という言葉を強調する含みのある言い方に、タマキはシータの判断が正しかったと悟った。
聞いていた通り、この辺りの市民たちには厄獣への嫌悪感が根付いているのだろう。
「アタシはトヨ。この町の顔役だよ。ほら、比較的安全な帰り道を教えてやるからついてきな」
「は、はい!」
「ありがとうございます」
こちらの事情も聞かずに先導し始めたトヨの後ろを、タマキたちは戸惑いつつもついていく。そんな二人の視線に気づいていたのか、トヨはこちらに背を向けたまま話し始めた。
「あんたら、市役所の人間だろう? 生活安全課とは別部署から派遣されてきたってとこかい?」
「っ……」
鋭い指摘を受け、タマキは緊張で息を呑む。シータは平静を保っていたが、タマキの正直な反応だけでその問いへの答えは言葉にしなくても明らかだった。
あまりに分かりやすいリアクションに、トヨは豪快な笑い声を上げた。
「アッハッハ! アタシは顔が広くてね。さっき占い屋のババアに泣きつかれて、事件現場に行ってたんだよ。そしたら、あんたらがノコノコ出てきたのが見えたってわけだ」
「そ、そうだったんですね」
たまは先ほど事件現場に殴り込んできた老婆を思い出して納得すると同時に、老婆が老婆のことをババアと呼んでいることが気になって引き攣った笑顔になった。
それに気づいているのか気づいていないのか、トヨはゲラゲラと笑いながら話し続けた。
「しかし市役所にも困ったもんだ。人間のための組織なのに、最近は厄獣との混じり者や災厄持ちまで職員にしてるそうじゃないか。人間としてのプライドがないのかね!」
歩きながら大声で憤るトヨに、タマキはどう答えたらいいものか迷って沈黙する。どんな反応をしても角が立つことは明らかだ。そう思うと、この場の正解は沈黙しかないのかもしれない。
そう思って口を閉ざすタマキをシータは不思議そうに眺めた後、空気を読まずに切り出した。
「トヨさん、トコフェス無差別殺傷事件について、伺いたいのですが」
「ばっ……!」
慌ててタマキがシータの口を手で覆うももう遅い。トヨは歩みを止め、二人に背を向けたまま低くうなるように言った。
「……話したところで、あんたたちに何ができるっていうんだい」
「えっ……?」
明確に怒りが込められた声色で告げられたのは、タマキにとって思わぬ内容だった。ぽかんと口を開けたままその場で固まっていると、トヨは燃えるような怒りと共に捲し立て始めた。
「20件だ! この町は、この数年で20回はあいつらの襲撃を受けてる! なのに市役所の連中も、民間武装会社の連中も、ろくに捜査しやしない! あいつら、大きな事件を形だけ捜査して、それ以外を握りつぶしてるんだよ!」
トヨの声は辺りに反響するほど大きく響き渡り、タマキとシータは揃って目を見開いた後、顔を見合わせた。
そしてどちらともなく頷きあうと、怒りで平静を失うトヨへと話しかけようとした。
「すみませんトヨさん」
「そのお話もっと詳しく――」
しかしその時、聞いたことのない間抜けな鳴き声が三人の足元から響いてきた。
「ぴゃん」
「え?」
思わず三人がそちらを見下ろすと、四足歩行の見知らぬ獣がちょこんと地面に座り込んでこちらを見上げていた。
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