【3】市役所一同、客人の皆様を歓迎致します
第14話 責務を果たすのが市役所職員です
存在が焼き切れ、霧散してからどれほどの時が経ったのか。
紫色の平面の中で少年は目を覚ました。
「っ……!」
何が起きたのか理解が追い付かず、少年は慌てて鏡の外へと出ようとする。だが、伸ばしたその手は平面から出ることはなく、ただ鏡の内側にぶつかった。
まるで透明なガラスの向こうに閉じ込められているかのように、少年はぺたぺたと鏡の表面を裏側から触る。
いくら試みても少年の体は平面のままで、数十秒かけてゆっくりと、少年は自分のたくらみが失敗したのだと悟った。
「……そっか、ダメだったんだ」
ぽつりと呟くも、その声を聞く者は誰もいない。
自分は、外の世界に憧れた。あの時、鏡に触れてくれたシータの体温に、彼を呼ぶ母親の声の暖かさに。
やっと手に入れたと思ったのに。
悔しさよりも先に湧き出てきたのは喪失感だった。
「あったかったなぁ……」
手を握った感触。ジュースの甘酸っぱさ。呼吸。抱きしめられた温度。家族と呼んでもらって、名前をくれると言われて、楽しい場所にも連れて行ってくれるって――
「でも……当然、だよね」
自分はムラサキカガミ。
認知されるだけで不幸を振りまく、呪われた存在。
そんな自分が実体を手に入れようだなんて、高望みな話だったのだ。
善意から守ろうとしてくれた人々を、不幸にすると分かっていて利用しようとした。
危害を加えようとしたのに、存在そのものを消し飛ばされなかっただけ、温情というものだろう。
きっと今頃、真実を説明されて、彼らは自分を憎く思っているに違いない。
嫌われたくなかった。あんなに僕のことを愛してくれた人たちに。
紫色の世界で、少年はしゃがみ込む。
もし自分がムラサキカガミではなくただの鏡だったら、呪われた存在なんかじゃなかったら。彼らは本当に、自分の家族になってくれたかもしれない。頭を撫でて、抱きしめて、本物の子供に向けるような愛を与えてくれたかもしれない。
自分が、紫色の鏡でさえなければ。
強い自己嫌悪のまま、少年はしゃがみこんだまま膝に顔をうずめる。
でも、これでよかったのかもしれない。
心の片隅に、そんな安堵も存在した。
自分の身勝手な望みのせいで、優しい彼らを傷つけることがなくてよかった。一日にも満たない、ほんの短い間、僕に優しく接してくれた人たちを不幸にしなくてよかった。
少年の目からこぼれた涙が、顔を押し付けたままの膝を濡らしていく。
いっそこのまま消えてしまいたい。
あんなに暖かい世界を知ってしまった今、寒くてひとりぼっちな場所で過ごすことに耐えられない。
次に強い存在が近くに来たら、存在を消してくれるように頼んでみよう。
腹の底で決意し、少年はさらに体を丸めて縮こまる。
その時――垂れ下がったまま微動だにしなかった帳が、何者かによってぶわりと揺らされた。
「……いた!」
聞き覚えのある声に、慌てて少年は顔を上げる。そこにいたのは、焦りと安堵が入り混じった顔をしているタマキだった。
もう二度と会うことはないと思っていた人物の登場に、少年は驚きで目を丸くしたまま硬直する。
タマキは慌てて鏡の前にやってくると、早口でまくしたて始めた。
「本当によかった! あれから何度もここに足を運んでいたんだが、君の姿は見えなかったから、もう消えてしまったんじゃないかって諦めかけていたんだ。でも、こうしてまた会えてよかった! あの時はごめんな。怖かっただろ?」
今まで堰き止めていた感情を吐き出すように、タマキは次々に言葉をかけてくる。少年はその勢いに目を回してしまいそうになりながら、震える声で問い返した。
「どうして……?」
「うん?」
「どうして、ここに来たの……? もう分かってるんだよね? 僕に会ったりしたら不幸になっちゃうんだよ!? 死んじゃうかもしれないのに……!」
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、少年は言葉をつむぐ。
罪悪感と、タマキを傷つけてしまうかもしれない恐怖。その二つの感情に翻弄されるまま、少年は鏡の中で泣き崩れる。
「僕、タマキさんたちのこと、傷つけたくないの……! お願いだから僕のことは忘れて……!」
自分のことを忘れてくれれば、彼らに不幸が降りかかることはない。
そのせいで自分の存在が消えてしまうとしても、そのほうがずっといい。
ほんの数時間の交流で、自分はあの人たちのことが大好きになってしまったから。
叫ぶように拒絶の言葉をつむいだ少年に、タマキは一瞬気圧された後、覚悟を決めた顔で彼の前にしゃがみ込んだ。
「坊や、一緒にトコフェスに行かないか?」
「え……?」
思ってもみなかったことを提案され、少年の思考は停止する。
顔を上げ、ぽかんと口を開いている少年に、タマキはゆっくりと告げた。
「俺たちは、君に伝えたいことがあるんだ。君はまだ、世界のほんの一部しか知らない。だからせめて、一緒にトコフェスを回ってみないか?」
真摯な眼差しで告げるタマキに、少年は腹の奥から恐怖がこみあげてくるのを感じた。
「そ、そんなの、ダメだよ……。僕、タマキさんたちのこと利用して騙してた。タマキさんたちなんか、不幸になってもいいって思ってた! だからもう帰って! 僕のことなんか忘れてよ!」
少年はわめくようにタマキを拒絶する。だが、タマキの態度は穏やかなままだった。
「さっき君は、俺たちを傷つけたくないって言ってくれたじゃないか。あの言葉が嘘じゃないことぐらい、俺にもわかるよ」
「そ、れは……」
「君のやり方は間違いだったかもしれないけど、それは俺たちが君の手を放す理由にはならないさ」
命の危機を迎えていたかもしれない可能性を簡単に許され、少年は困惑でどう答えたらいいか分からなくなる。
タマキはそんな少年をしばらく見つめていたが、ふと改まった表情になると冗談を言うようにつづけた。
「もしそれでも納得できないなら、ちょっと屁理屈をこねるからな」
「……え?」
きょとんとしている少年に、タマキは言い聞かせるように告げる。
「本来、トコフェスの目的は、『客人』を歓待することなんだ。『客人』の君が、市役所職員の俺たちに歓待されるのは当たり前のことなんだよ」
タマキが口にした内容に、少年は零れ落ちそうなほど目を見開いた。確かに屁理屈ではあるが、少年にはそれに反論する言葉は思いつかず、呆然とタマキの顔を見ることしかできない。
そんな少年の様子にタマキは苦笑し、そっと彼に手を差し伸べた。
「さあ、パパと一緒に行こう。シータさんも、君のことを待ってたよ」
「っ……」
少年は細かく震えながら、自分の手を鏡の向こう側へと伸ばす。
ついさっきまで外に出ることを拒絶していた鏡面は、あっさりと少年の存在を許し、平面だった手は差し伸べられたタマキの手に重ねられる。
タマキはその手をしっかりと握ると、少年を鏡の外側へと引っ張り出した。
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