008 フィナンシェ
僕の本格的な大学生活が始まった。
一限から四限までみっちり講義。財布と鍵とスマホはズボンのポケットに突っ込んで、リュックサックに教科書やルーズリーフを詰めて向かう。語学の講義ではそれなりに同級生たちと会話を交わし、いよいよ楽しくなってきた。
初日は疲れたので真っ直ぐ帰ろうとしたのだが、大城さんからボックスに来てほしいと連絡があり、少しだけ顔を出すか、と向かった。
「やっほー瑠偉くん! 今日から講義やんなぁ。どない?」
「いやぁ、大変ですけど、慣れていこうと思います」
ボックスにいたのは大城さんだけ。机の上には茶色い箱が置いてあった。
「これ、アンリのフィナンシェ! 美味しいでぇ」
「へぇ……いただきます」
僕は一つつまんで食べた。バターの風味がたっぷりで、何個でもいける味だ。
「やっぱり神戸は美味しいもの多いんですね」
「まあ、これは芦屋のやつやけどね」
「そういえば……大城さんは神戸の方なんですか?」
「せやで。実家から通っとう。まあ、最近は澄ちゃんの部屋に入り浸っとうけどな!」
僕は少し気になっていたことを聞いてみた。
「澄さんはどちらのご出身なんですか? 関西ではないですよね?」
「あの子は東京やで。なんで神戸の大学にしたんかは教えてもらえへんかったわぁ。それ、大城さんに言う必要あります? って」
「ああ……なるほど」
まだ短い付き合いだが、澄さんがそう言う姿は簡単に想像できた。フィナンシェの袋をゴミ箱に放り込んだ僕は、大城さんに向き直った。
「それで……今日僕を呼んだのはお菓子だけが理由じゃないですよね?」
「せやで! あんなぁ、明日、軽音部の新歓ライブ行かへん? 友達出んねん」
「はぁ……軽音部の、ですか」
今まで大城さんから聞いた話をまとめると、部はサークルより力が強いことはわかっていた。
「別にええですけど、新歓なんでしょう? それで僕が軽音部に入りたくなったらどうします?」
「わぁ! それは困る! 困るけど、いっぺんライブを体感してもらいたいんよなぁ……アマチュアでもこんだけ楽しいんやでって……」
大城さんは腕を組んでうんうんうなった。そして、ポンと手を叩いて言った。
「うん! ここは博打やね! 瑠偉くんがあたしらを選んでくれることに賭ける! 向こうの部室やとタバコ吸えへんし!」
「あっ、そうなんですね……」
「ほんまはここもあかんけど。学務が見回りにきたらヤバい!」
「あっ、えっ……」
「まあ、何か問題起こさん限り来ぉへんと思うし遠慮なく吸いなぁ」
そう言って大城さんがタバコを取り出したので、僕もつられてそうした。二人で煙を吐き出していると、澄さんがやってきた。
「どうも……」
「あっ、澄ちゃん。明日瑠偉くん軽音部の新歓に連れて行くわ。澄ちゃんはどうする?」
「ぼくは遠慮しておきます……」
「やっぱりまだ気まずいん?」
「まあ……」
何やら因縁がありそうだということを匂わされたが、この場で聞ける度胸はない。僕は大城さんにライブ自体のことを尋ねた。
「どこでやるんですか?」
「大学から歩いて行けるところにちっちゃいライブハウスがあるんよ。新歓やから一回生は無料。あたしは友達からチケット貰っとう」
「そのお友達って?」
「ああ、
澄さんは床に座り、ベースをいじりはじめていた。ヘッドホンをつけ、すっかり閉じこもった形だ。
それから、櫻井さんもやってきた。今日は長髪を後ろで一つにまとめていた。
「おっ、全員集合しとうやん。あっ、フィナンシェ!」
ずかずかと寄ってきてフィナンシェを口に放り込んだ櫻井さんは、子供っぽい笑顔を見せて言った。
「あー、お紅茶欲しいな」
大城さんが返した。
「ティーセットとか置けたらええんですけどねぇ。片付けたけどこれが精一杯ですし」
僕は改めてボックス内を見回した。まだ、改善の余地があるように思うが……。
大城さんは櫻井さんにも言った。
「明日、瑠偉くん軽音部の新歓に連れて行きますわぁ」
「おっ、行ってらっしゃい」
僕は口を出した。
「櫻井さんは行かないんですか?」
「ああ、俺? 出禁やねん。あはっ」
「えっ……何したんですか」
「一回生の時は軽音部入っとったんやけど、色々やらかして」
その会話が聞こえていたらしく、澄さんがぽつりと漏らした。
「あれでしょ……学内スタジオに男連れ込んで……」
「あっはい、それ以上は想像できたんでええです」
本当にろくなことしていないな、この人。櫻井さんは澄さんの隣に腰をおろした。
「澄ちゃん、タブ譜できた?」
「ああ……ちゃんと紙にしてますよ、渡しますね……」
澄さんはトートバッグからクリアファイルを取り出した。
「サンキュー。ほな練習しよ」
僕は彼らに尋ねた。
「たぶふ……って何ですか?」
澄さんが答えてくれた。
「弦楽器用の楽譜……サクラナミキはまだ公式の楽譜出てないから、ぼくが書いた」
櫻井さんが言葉を継いだ。
「あれから、サクラナミキ練習しとこ! って話になってなぁ。もし瑠偉くんが引き受けてくれるんやったら、あの曲で審査出したい」
「そうだったんですか」
大城さんが両腕を天井に突き上げて言った。
「あたしも基礎練せななぁ!」
そういうことだったら、と僕は席を立った。
「じゃあ、僕はこれで。大城さん、明日はよろしくお願いします」
「うん、四限終わったら図書前で集合しよか」
初めてのライブか。一体どんなものなんだろう。僕は確かな期待を胸にしていた。
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