002 誘い
櫻井さんの住むマンションはオートロック式だった。彼は集合ポストを確認してからエレベーターホールに行った。その中に入ってから階数を確認した。二十階建てらしい。櫻井さんは十五のボタンを押した。
「人はよう呼ぶから、片付けてはいるで」
「そうですか」
大学生活で楽しみにしていたことの一つが、部屋に呼んだり呼ばれたりすること。入学式当日からそれが叶うなんてついているな。
部屋に着き、扉を開けてもらい、まず目に飛び込んできたのは長い廊下だった。入ってすぐキッチンがある僕の部屋とは違う。
廊下の左右にはいくつか扉があったが、それらは全て閉められていて、真っ直ぐ進んだ先の扉まで案内された。
「とりあえずソファに座っといてもらおか……」
入ったのは広いリビングだった。四つも椅子がある大きなダイニングテーブルがあった。その他にソファとローテーブルがあり、ソファに座るとテレビが目の前にくる形だ。
「瑠偉くん、コーヒー飲める?」
「はい、好きです」
「ドリップしかないけど。ちょっと待っとって」
僕はソファに腰掛け、ぐるりと辺りを見回した。櫻井さんの服装があんなのだったので、部屋も派手なのかと思いきや、落ち着いたダークブラウンでまとめられていた。無駄なものはほとんどなかった。
ローテーブルは下に段があり、そこにティッシュとリモコン、メガネが置かれていた。振り返ると、キッチンは壁で見えず、櫻井さんの姿はわからなかったが、お湯をいれる音は聞こえてきた。
「砂糖とかミルクとかいるー?」
「いえ、ブラックで」
「そうかぁ。俺もブラック派」
二つのマグカップを持ってきた櫻井さんは、それをローテーブルに置いて僕の隣に腰掛けた。
「そういや瑠偉くんは実家? 一人暮らし?」
「一人暮らしです。岡山から出てきました」
「岡山かぁ! 何か方言喋ってぇなぁ」
「……嫌です」
この人の前では岡山弁を出すまい、と決めた。話を広げられたくなかったので僕から質問した。
「櫻井さん、ご出身は?」
「神戸やで。通えんこともないけど、実家嫌やったからここに住んどう」
「へぇ……寝室は別なんですか?」
「せやで。ここの他にもう一部屋ある」
自分の城がたちまちしょぼく思えてきた。見えないけれど、キッチンも広そうだし、寝室も気になる。しかし、知り合ったばかりで部屋のことをあれこれ詮索するのもまずいと思い、話題を変えた。
「櫻井さんは何回生なんですか?」
「ああ、俺? 六回生?」
「六……? 院生ってことですか?」
「いや、その、二年留年」
「えっ……」
こんな人に講義やテストのことを聞いても参考にならないのではないだろうか。
「そんな顔せんでやぁ、単位は足りとうねん。前回は卒論の締め切り過ぎてしもてな」
「はぁ……そうですか」
ここは貰うものだけ貰ってさっさと退散しようか。そう考えた僕は過去問について切り出そうとしたのだが、櫻井さんの方が早かった。
「で、瑠偉くんって童貞?」
「……はっ?」
いきなり何を聞いてくるんだこの人は。
「恥ずかしがらんと教えてぇなぁ、大事なことやから」
「まぁ……童貞ですけど……悪かったですね……」
「悪いことあらへん! 好都合!」
「……はっ?」
ますますわけがわからない。
「ほなさぁ、二万でどう? 童貞売ってぇなぁ」
「意味わからんのですけど」
「俺、男の子とするん好きでさぁ……瑠偉くん顔も身体もめっちゃ好みなんよ……」
「え……ええっ?」
さあっと血の気が引いた。するって……つまり……そういうこと? まさかそんな目で見られていたなんて思わなかった。
「無理ですできませんすんません」
「まぁ、今日やなくてええよ! 売ってくれる気になったらいつでも言ってや!」
「そんな気なりませんから!」
早く、早く逃げたい。とんでもない先輩に捕まってしまった。僕はとにかくコーヒーを飲み干そうとしたが物凄く熱かった。
「瑠偉くん、とりあえず連絡先交換しとこうなぁ」
「まあ……それくらいなら」
僕も櫻井さんもスマホを取り出した。大学ではこうやって友だち一覧が増えていくのだろうが、最初がこの人か。頃合いを見てブロックしておいてもいいな。
「……それで、僕、過去問貰いにきたんですけど」
「ああ、そうやったなぁ」
櫻井さんは一度立ち上がり、キャビネットから紙束が入ったクリアファイルを取り出した。
「ほい、これ。問題も解答例もついとうで。あとは履修登録やなぁ。教職とか取るん?」
「いえ、特には」
「ほな文の必修科目優先やなぁ……パソコン持ってくるわ」
ノートパソコンをローテーブルの上に広げ、メガネをかけた櫻井さんは、それからは至って真面目に説明をしてくれた。さすが、大学六年目、というところだろうか……。
コーヒーを飲み切る頃には一通りのメモを終えて、これで用事は済んだ。僕はぺこりと礼をした。
「櫻井さん、ありがとうございます。ためになりました」
「また何かあったらいつでも連絡してなぁ! 童貞売りたくなったら言うて!」
「なりませんから!」
エレベーターホールのところまで見送ってもらった。もうここに来ることはないだろう。誰がいくらお金を積まれても童貞を売るものか。こういうのは、その、ちゃんと好きな人とじゃないと。
僕の住むマンションは大学の正門の方角にあったから、一旦裏門から敷地内に入って通り抜けることにした。すると、図書館の前でサークルの勧誘をする生徒たちが大勢いた。スーツ姿のままの僕だ。格好の獲物になってしまうことだろう。
僕はできるだけ早足で、きょろきょろせずに正門へと急いだ。ビラを一枚も受け取ることなく大学を出て、帰宅した。
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