どうぞ、こんな日には1杯のココアを。

◯◯ちゃん

どうぞ、こんな日には1杯のココアを。

雨が降っている。

ここ最近降っていなかったからか、ここぞとばかりに派手な音を立てて降っている。

この様子だと桜は早々に散ってしまいそうだ。


夜中泣いていたのだろうか。

開きにくい目をどうにか少しこじ開けて、時間を確認した。

「まだ寝られるじゃん…」

アラームが鳴るまで2時間ほどあった。

どうしようか。

このまま起きても支度をしているうちに眠たくなってしまうのがオチだ。

でもせっかく早く目覚めたのなら、この荒れている部屋を片づけてしまいたいし、昨晩の洗い物もシンクでまだかまだかと待っている。


天気予報アプリを開いた。

家を出る時間に晴れるなら少しは気が楽になるかと期待したのだ。

そんな期待もあっという間に打ち砕かれ、さらに憂鬱な気持ちになった。

昔からこうだ。

お天気と心模様は比例する。

ずんと重たい心と疲れの取れない身体。

もしかして私、満身創痍じゃない?

だめだ。自覚するともっと辛くなってしまう。

一生懸命この事実から目を背けながら、ぐっと目を閉じ布団にくるまった。


***


ぱっと目が覚めた。

暖かい光、どこか聴き覚えのあるようなレコードの音。

私がいるのは疲れ切った部屋のベッドではない。

丸い椅子のカウンター席に座って頬杖をついている。

ここはどうやら喫茶店のようだ。

「いらっしゃい、お客さん」

声のする方へ目をやると、まるで巨大なクマのぬいぐるみをそのままさらに大きくしたようなふわふわのクマがエプロンをつけて立っていた。

これは夢?目の前の状況を理解できずいる私をよそに、クマは近づいてきてメニュー表を渡してきた。

不思議と恐怖は感じない。むしろ安心感を覚えた。

なんだろうこの懐かしい気持ちは。


渡されたメニュー表には記されていたのはたったひとつ。

『ココア』

そういえば前はよく飲んでいたな。

「すみません、ココアをひとつください」

「はい」

ティースプーン3杯分マグカップにいれて、少しお湯をいれて練る。

粉っぽさがなくなってきたらお湯を追加して混ぜる。

そしてできあがったココアに氷をひとつ。

くるくる回る氷を眺めていた。

この氷みたいにくるくる回って、徐々に生ぬるくなる温度を感じて同化できたら、なんて考えていたっけ。


店内をぐるりと見渡してみる。

お客さんは私しかいないようだ。

カウンター席と後ろにはボックス席が数席。

茶色とえんじ色で統一された店内はなんだか居心地がいい。

調理場があるであろう方向には窓があった。

イチョウの葉がひらひらと落ちていく。

「秋かあ」

すきな季節だけど秋には苦い思い出がある。


***


あれは去年の秋。

研修を終えて少し業務にも慣れてきた頃のこと。

人材派遣会社で働く私は、この頃から独り立ちということで、1人で業務にあたるようになっていた。

私たちの会社はスタッフが派遣されてから1ヶ月後、そして半年後に派遣先の担当者と三者面談をする。

その面談自体はなんの問題もなく終わった。

ただ何か、喉に引っかかる小骨のように、少し違和感を覚えていた。

もやもやした気持ちとともに退勤したのをよく覚えている。


数日後、出社するとメールが届いていた。

先日面談したスタッフからだった。

どうしても話したいことがあるから、時間を作ってもらえないかという内容だった。

隣のデスクにいる五十嵐先輩に相談したところ「佐々木に余裕があるなら来てもらって話聞いてみたら?」との返答だった。

余裕?

そんなものは持ち合わせていない。

だけど、あの違和感を見過ごしてはいけない気がして私はどうにかして時間を作り、面談を設けることにした。

『時間と余裕は作るもの』そう言い聞かせて。


***


「はい、どうぞ」

ココアが届いた。

頼んでいないはずなのにそこにはくるくると回る氷があった。

しばらくその様子を見つめていた。

氷が溶けていなくなったそこに映っていたのは余裕のかけらもない女性だった。

「うわあ、ひどい顔」


***


面談は社内の、パーティションで区切られた区画で行われることになった。

「わざわざご足労いただき恐縮です」

「いえ、私こそお時間割いていただいてしまって…」

三者面談のときとは打って変わって疲弊した彼女の姿に少し困惑したが、ひとまず話を聞くことにした。

彼女は現在の派遣先でセクハラを受けているらしい。

「仕事内容を教えてくださることはありがたいんですけど、毎回肩に手を添えられたり、業務に必要だからって連絡先を聞かれて、仕方なく教えたら仕事のことなんてひとつもなくて、何度も2人きりの食事に誘われたり...」

彼女はハンカチを握りしめ、震えながらそう教えてくれた。

「それは立派なセクハラですね。辛かったですよね。気づくことができず申し訳ありません」

すぐに上司に報告、その派遣先との契約は打ち切りになった。


帰り道、私の足取りは重かった。

どうしてもっと早く気づけなかったんだろう。

どうしてあのとき、違和感を無視したんだろう。

先輩がいればもっと早く対処できたかもしれない。

彼女の辛さ、ここまで耐えた時間、もう植えつけられてしまった恐怖。

それらを想像すると心が張り裂けそうだった。

こんなので私、これから1人で担当していけるのかな。


翌日、事を知った五十嵐先輩に声をかけられた。

「昨日のこと聞いたよ。大変だったな」

ちゃんと眠れたかと心配してくれる優しさに思わず涙を流してしまった。

私が泣く資格なんてないのに。


それからの私はスタッフの労働環境に過敏になった。

「そんな様子じゃお前が先に潰れるぞ」

そう言われたけれど、彼女のような被害者をこれ以上増やしたくなかった。

いつしか仕事とプライベートの境界線が曖昧になっていた。


***


あれから約半年。

つい先日のことだ。

五十嵐先輩にごはんに誘われた。

「最近どうよ」

「まあ、なんとかやっている感じですね」

「俺たちと比べちゃだめだぞ?年数も経験も違うんだから」

わかってはいる。でも担当が先輩だったらと考えずにはいられない。

新規の担当が増える度に私で大丈夫かなと不安を覚えているくらいだ。

「俺も新人の頃はいろいろあったよ。たまたま運がよかったのか、佐々木みたいなヘビーなのには当たらなかっただけでさ」

ビールの炭酸がしゅわしゅわと上がってははじけていく。

「もう少し肩の力抜けよ。このままじゃお前本当に潰れるぞ」

「わかってはいるんです。でも」


***


目の前に置かれたココアをひと口。

ほわっと胸の辺りが温かくなった。

「お客さん、大丈夫ですよ」

おもむろにクマが言う。

「この店にはね、お客さんみたいな人がよく来るんですよ。でもね、みんな晴れた顔で帰っていく」

「お客さん、大事な何か見逃してませんか」

それだけ言うと「どうぞ、ごゆっくり」と去っていった。

大事な何か、か。

そういえば私の「でも」を遮って五十嵐先輩はなんて言ってたんだっけ。

ココアを見つめ、またひと口。

今までのことを思い返してみる。

仕事を覚えることに精一杯だった入社初期、独り立ちして不安だったあの頃、そして今。

「でもじゃない。佐々木は今できる最善を尽くしてるだろう」

声がした方に振り返るけれどそこには誰もいない。


残っているココアを飲み干した。

そうじゃん。私、頑張ってるじゃん。頑張れてるじゃん。

あの右も左もわからず、ただメモをとることしかできなかったあの頃。

そっとメモを見て対応していたあの頃。

今はメモも必要ない。

見るのは目の前の担当スタッフだけ。

私はしっかり向き合えてる。


大丈夫だ。

そう思えた瞬間「ありがとうございました」とクマの声が聞こえた気がした。


***


ピピピピ

アラームの音で目が覚める。

私は自宅の布団で丸まっていた。

「あれ…ココアは?」

眠気眼をこすりながら1人呟く。

夢だったのか、はたまた現実かわからないけれどなんだか晴れやかな気持ちだ。

大きく伸びをし、カーテンを開けるとそこには綺麗な青空が広がっていた。


「おはようございます」

「おはよう、おつかれ」

誰もいないだろうと踏んでいつもより早く出勤してみたら、五十嵐先輩がいた。

私よりも担当しているスタッフは多いはずなのに、大抵定時付近で帰る先輩。

なるほど、早く来てこなしていたのか。さすが先輩。

私もそうしたら荒れている部屋にも、シンクに溜まる洗い物にも悩まされずに済みそうだ。


「今日早いな。しかもなんか機嫌いいじゃん」

私は先ほどまでの出来事を思い出し、くすっと笑った。

「そうですね。ココアのおかげかな」

先輩は「なんだそれ」と苦笑していたが気にせず仕事を始めた。

私は私にできることを精一杯やるんだ。

今日はいい1日になりそうだ。

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