02 駆け落ち
アルバ家、激震が走る。
それはたった一通の手紙から始まった。それはアルバ家の当主――私の父に当てられたものであり、この家全体に向けられたものであった。
『この家を出ます。幸せになります。我儘な娘を許してください』
妹の、アザレアの駆け落ち。
それがわかるのはもっと後だ。ただ文面から読み取れた瞬間、父の心情はたやすく想像できる。血の滾るような怒りに襲われたことだろう。
「――巫山戯るなッ! 許せるものかッ!」
手紙を受け取った父の怒号が屋敷に響き渡った。その声に私は目を覚ました。おはようございます。
*
私は従者であるナナコに呼び出され、父の元へ歩いていた。隣にいる従者から詳しい内容を聞いているところであった。
「お嬢様はアザレアお嬢様の異変に気付いたりしませんでしたか?」
「私が? どうして?」
「アザレアお嬢様を一番よくわかっていたのはお嬢様だと思うからです」
ナナコは私が幼い頃から共に過ごした従者であった。年齢は私より二つ上か。よく見抜き、聡い頭を持っている。ナナコの言葉は真理でもあり、的外れとも言えた。
「そんなことないわ。お母様やお父様の方が、よっぽど」
「……」
これにはナナコは答えない。わかりやすい従者だと思う。家族から疎まれる私にとっては、この従者はかけがえのない存在の一人だ。この案外わかりやすい彼女の一面も好ましく思える。
「それで、駆け落ち相手はわかってるの?」
「クロッカスです」
「あら、彼?」
あの紫色の髪をした青年の顔が思い浮かんだ。
彼は移民だ。もとは帝国都市に敗北した国の出だと聞いている。父だか母だかが拾ってきた。物静かで仕事ができる使用人。そんなイメージだけが残っている。
「外で会っていたのではないか、とされてます。アザレアお嬢様はここ最近、外出が多かったそうなので……」
「ああ、そういえば。そうだったわ」
あの忠告をアザレアは無視したことになる。いや、昨日の時点でアザレアは駆け落ちをすることを決めていたに違いない。
不思議と何の感慨も湧かなかった。なんとなく、アザレアは
父の部屋の前で私達は足を止めた。すぅっとナナコは頭を下げる。私は父の部屋を開けた。
部屋には母と父がいた。母は予想通りオロオロとしている。父だけが青筋を立てて、周囲に怒りの気を散らしていた。
「お待たせいたしました」
「遅いッ!」
父は早速私に噛みつかんばかりに叫んだ。
「申し訳ありません」
折り目良く頭を下げた。この程度頭を下げるぐらいで気が済むならいくらでもしてやるつもりだった。
幸い、父は感情に振り回されながらも、本質的には当主であった。当主としての責務を果たしている。
「……アザレアが出て行った。聞いてるな?」
「はい。大体の事情は」
「相手はあの移民だ。恩を仇で返すとはこのことだな。買うんじゃなかった」
私は小さく息を吐いた。恩、か。この人達にとってクロッカスを手に入れたのは善意のつもりだったようだ。
「至急、アザレアとクロッカスを探す。――が、いかんせん時間がない」
「時間とは?」
「わかっているのか? 今日はブレーシュ家の結婚式ではないか」
きっと睨みつけられた。もちろん、わかっている。ただ素直に頷くのは癪だ。
「このままであれば、向こうの面子を潰すだけではない、アルバ家の根幹に関わるぞ」
「貴女ッ! 本当にアザレアのことを知らなかったのッ!?」
母が唐突に叫んだ。血走った目は私に向けられている。
母はいつだって泣き叫ぶばかり。女として、人として弱いのだ。そのナヨナヨさに父は惹かれたのか利用しやすいと踏んだのか。
「私は何も知りません」
「けどッ!」
「お前は黙っておれ」
父の言葉に母はびくりと肩を震わした。そのまま手で顔を押さえ泣き出してしまう。……こちらが嫌になる。
父は冷めた目で私を見ていた。この視線の冷たさを私はよく知っている。
「問題はこの結婚式をどう乗り切るか、だ。――白紙にするよう、どうするべきか」
父は答えを促しているようで、実のところ、答えを決めている風に聞こえた。
「アザレアを、死んだことにするか」
駆け落ちはアルバ家にとって心証を悪くさせる。ならいっそのこと、アザレアの存在自体を消してしまおうというのだ。
実に、父らしい答えだ。
不意に、部屋の外から騒がしさが聞こえた。父の答えに私が応えようとした寸前、扉が開かれる。
「いけませんッ! 今は話し合いの最中で――」
「知らん」
底冷えの、剣のような声音。
私は振り向いた。あの父も息を呑んでいた。
「貴方は……」
「この密会、私も参加させてもらおうか」
ギルバード・ブレーシュ。
妹の婚約者が突如として現れた。
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