ポストファミリー
西野ゆう
第1話 裸の手紙
平野部より僅かに遅れて、この里之原にも春の足音が聴こえ始めていた。郵便局の入り口横にある桜も、ようやく蕾を膨らませ始めている。
俺がこの郵便局に来て三日目。春は小さな事件を連れて、静かに忍び寄ってきていた。
「なんだよ、今日は随分多いな」
長机に郵便物を広げた時に俺は思わずそう溢した。多いというのは郵便物がではない。駄菓子のゴミだ。初日こそ懐かしさを覚えていたが、こう毎日続くと嫌にもなってくる。今更ながらに、俺は自分の幼少期の行いを反省した。
少々複雑な気持ちで郵便物を仕分けていた手がふと止まった。
「なんだろ……」
重なった葉書の間から、二つ折りにされた紙の折り目部分が顔を出していた。手を伸ばして抜き取ったその紙の一辺には、丸い穴が連続して空いていた。システム手帳か何かの紙のようだ。
俺は全ての封筒を確認したが、封をするのを忘れて口が開いている封筒はひとつもない。全てしっかりと封がされている。どうやら封筒から中身が出てしまったわけではないらしい。郵便物ではないと判断して、俺はその紙を広げてみた。
――こんにちは。お変わりありませんか。私はいつも通り元気です。あ、でも少し花粉症が出てきましたけど。こちらはまだ朝は冷え込むようですね。気温差が大きい時期ですから、風邪に気を付けてお仕事頑張ってください。
文はそれだけだ。宛名も差出人の名前も、当然ながら切手など貼っているわけもなく、ただ紙の右下で手描きの猫が花畑の上をジャンプしていた。
「小倉さん。これ、誤投函ですよね? 何か電話とかありました?」
悪戯好きの子供たちのように、故意にゴミなどをポストに入れるのではなく、郵便物以外の物を間違って投函するということは割とよく起きる。この郵便局の管内では、診療所の前のポストに間違って薬の入った袋を入れてしまう老人が特に多いらしい。その場合は大抵すぐに誤投函した本人が気付いて、郵便局に電話が入る。
「電話はないよー。何、それ? 買い物のメモか何か?」
小倉さんは俺が挙げた手で、ひらひらと揺らす紙を指差して言った。
「いや、手紙のようなんですけど、封筒にも入れられてないんですよ。名前も無いし。とりあえず保管箱に入れておきますね」
俺は今日の日付を書いた付箋をその手紙に貼ると、局長のデスクの後ろに置いてある段ボール箱に入れた。箱の中には同じようなメモの類や、小さな子供が落としたのか、タイヤのひとつが取れているミニカーなどが入れられていた。高価な物は一定期間局内で保管した後に警察へ届けるが、そうでない物は局内で半永久的に保管している。
俺は何となく一度入れた紙をもう一度拾い上げ、再び文章を眺めた。短い文だ。仮に当人がポストに入れてしまったことに気が付いていても、もう一度書けばいいと思うだろう。取り戻そうと電話をしても恥ずかしい思いをするだけだし、取りに来ることはまずないのではないか。そう推測した。
俺のその推測通り、宛名の無い手紙を取りに来る人物は現れないまま、一週間が過ぎた。そして、思いもしなかった出来事が起きる。
再び宛名のない二つ折りの手紙が投函されていたのだ。
今度は袋の中身を出した直後に目に入ったので、どのポストから投函されたのかが分かった。あの駄菓子屋の前のポストだ。俺は迷わずその紙を手に取り開いた。
――こんにちは。お仕事お疲れさまです。私はおととい二十歳になりました。これまでがあっという間だったような気がします。二年後には社会人になります。どうなるのかまだ予想もつきませんが、まずはちゃんと卒業できるよう真面目に頑張ります。
先週の手紙同様、右下には猫が跳ねている。
「……」
俺は、局長が書類仕事に集中しているのを確認して、前回の手紙を段ボールから取り出し、今日入っていた手紙と共にズボンのポケットに仕舞い込んだ。
そのまま一日の仕事を無難にこなして自宅に帰ると、母さんが用意していた夕飯をいつもより気持ち早めに平らげた。途中何度か母さんから投げかけられた質問にも「ああ」とか「うん」とか適当に答え、ただ食器の中身を空にすることに集中した。
「ごっそさん」
「お風呂は?」
「俺、最後でいいや」
そそくさと離れの自室に入った俺は、すぐにパソコンの電源を入れて、住宅地図のデータを呼び出した。画面をスクロールさせて駄菓子屋を中心に置くと、マウスから手を離して腕組みをした。
「二十歳の女……いねぇよなぁ」
画面の中には二十軒の家が映し出されている。この里之原でも、比較的家が多い地域だ。その全ての家の家族構成が俺の頭の中には入っていた。ここに来た初日に、保険のデータを見たというのもあるが、それ以前に里之原は、五十歳ぐらいまでが「若者」と呼ばれるくらいの超高齢化地域だ。若い人間がどこにいるかはもちろん、どこの子が高校を卒業して里之原を出て行ったか、なんて話もすぐ耳に届いてくる。
俺は二枚の手紙をキーボードの上に並べて漠然と眺めた。
「二度も同じことするかね……」
とんだうっかりさんだ。投函した本人には申し訳ないが、思わず笑ってしまった。この
そういえば、中学三年になると同時に転入してきた女子がいた。転校してゆく生徒はいても、転入してくる生徒は珍しい。教師の子供か、駐在員の子供がたまにいるが、彼女はそのどちらでもなかった。転校生というだけでも目立つ存在なのに、彼女の髪は金髪に限りなく近い茶髪だった。
この町で生まれ育った子供で、わざわざ髪を脱色するような奴はこれまでいなかったから、相当な衝撃を受けたのを憶えている。しかも、先生たちは誰一人として彼女の髪のことを注意しなかった。
「うっかりシャンプーと間違って、脱色液を気付かずに使ったらしいから」
転入初日、彼女の横でそう説明した担任も、なんとも投げやりな説明をしていた。あれ以来、「うっかり」という言葉を聞くと、その転校生を思い出す。
今思えば、家庭環境だとか、精神的な何かとかに配慮していたのだろう。実際、彼女の髪が金髪だからといって、周りに何か影響を及ぼしたりはしない。ただ、彼女本人が損をしていただけだ。卒業するまで彼女の髪は綺麗に脱色され続けていたが、誰も気にしていなかったし、誰も相手にしていなかった。
この手紙は、本当に「うっかり」なのだろうか。いや、こんな手紙をポストに入れても何にもならないだろう。
「もしかして……」
ふと思い付いたことがあって、俺はパソコンのブラウザを立ち上げた。検索バーに「ポスト おまじない」と入力する。
「違うか」
もしかしたら、ポスト、特に丸ポストに裸の手紙を投函したら、思いが叶うとか、そんな「おまじない」でも流行っていないかと思ったのだが、そんなものは見当たらなかった。やはり本物のうっかりさんが、この里之原には住んでいるようだ。
「忘れた頃にやってくるのって天災でしたっけ?」
午前の集荷から戻ってきて、長机に袋の中身を出した時、俺は相変わらず週刊誌を読んでいる小倉さんに訊いた。
「ん? 天災とか、災害とか? かな」
「ですよね。……うっかりも忘れた頃にやってくるみたいです」
長机の上に、二つ折りにされた紙。片側には丸い穴が一列に並んでいる。開いてみるまでもない、宛名のない手紙だ。
「寅彦だね。寺田寅彦」
局長が口の中のアンパンを飲み込んだ後に、遅れて話題に入ってきた。
「寅彦って誰です?」
手紙のことで、何か知っているのかと思った。だが、そうではなかった。
「その、忘れた頃にやってくるって言葉だよ。物理学者で俳人の寺田寅彦」
国語の試験勉強で、文豪と呼ばれる人たちの名前と作品名を暗記しては、すぐに忘れていた俺は、「そうですか」としか返せなかった。それに、その寺田なんとかよりも、今俺の目の前にある一枚の紙の方が問題だ。
今日は水曜日。先週も、先々週も、やはり水曜日だった気がする。二度あることは三度ある、なんて言葉では済まされそうにない。俺は、その紙を開くことなくポケットに忍ばせた。
今日も急いで夕食を済ませた俺は、離れの部屋で三枚の紙を前に腕を組んでいる。今日入っていた紙は、まだ開いていない。なんだか読むのが怖いような、申し訳ないような、そんな気分だ。
先月までの職場だったら、気にも留めていなかっただろう。腹立たしく感じただけかもしれない。何と言っても、郵便物ではないのだから。駄菓子の包み紙と変わらない。
変に時間があるから、余計なことを考えてしまう。無駄な想像を巡らせてしまう。考える必要なんてないのだが、つい好奇心が勝ってしまうのは、手紙を書いているのが二十歳の女だからだろうか。……いや、女と決まったわけじゃない。だが、あの文面と文字で男だったら気持ち悪い。
「しゃーない。何か分かるかもしんねぇし」
誰に対しての言い訳か、独りでそう呟いてから、今日投函された手紙を開いた。すると、文字よりも先に薄桃色の小さな花びらが目に飛び込んできた。桜の花びらだ。
――こんにちは。桜は綺麗に咲いているのに、花びらを散らした風はとても冷たかったです。それでも桜を見ると心が温かくなります。今年は桜を見ても、涙は出ませんでした。
読むんじゃなかった。読んだ瞬間に後悔した。涙は出ませんでしたと書いているのに、手紙は泣いている。そう思った。
この手紙は、おまじないなんかじゃない。ましてや、うっかり誤投函されたものでもない。何かの願いが込められているような気がする。
俺は、改めて一枚目の手紙を読んだ。
――こんにちは。お変わりありませんか。私はいつも通り元気です。あ、でも少し花粉症が出てきましたけど。こちらはまだ朝は冷え込むようですね。気温差が大きい時期ですから、風邪に気を付けてお仕事頑張ってください。
胸がチクリとした。「お変わりありませんか」とは、誰に言っているのか。
「丑松……さん?」
そうとしか考えられない。これは、丑松さんに宛てた私信だ。そう思い至ると、罪悪感が身体を包みだして、両肩がその重みで地面に引き寄せられた。
誤投函した娘は項垂れているだろうと想像した俺が、まさかこんな形で項垂れるとは思わなかった。
もう一週、もう一週間だけ待ってみよう。限りなくその可能性は低いが、誤投函ではないとも言い切れない。俺はそうやって、手紙を読んでしまった罪悪感を軽くしようと考えていた。
だがその前に、あることに気付いてしまった。
手紙の右下に描かれている猫が動いている。花畑は三枚とも全く同じだ。猫だけがより高くジャンプしているのだ。俺は、三枚を重ねて、数回捲って猫の位置を確認した。
「パラパラ漫画か……」
やはり、俺が来る前から連続して投函されていたのだろう。書き始めに猫が宙に浮いている状態だとは思えなかったし、何より手紙の文面も、ある程度の親しみが込められている。それでも局長の後ろの段ボール箱に同じような手紙が無かったということは、今までの手紙は読むべき人の手にちゃんと渡っていたということだ。
だが、本来の「読むべき人」は亡くなってしまった。
どうするべきか、俺は目を閉じて思案した。
誤投函だと信じ込み、故人宛てとはいえ私信を読んでしまったという罪悪感のせいで、局長や小倉さんに相談することも躊躇われた。
次の日、駄菓子屋の前のポストを開け、ポストから収集車に袋を積む時に、中を確認した。やはり木曜日の今日、あの手紙は無い。駄菓子のゴミは相変わらず入っている。俺はそのゴミを掴み、運転席へと戻る前に、駄菓子屋の中に向かった。店に入る前に、ポケットに入れていたあの手紙を取り出す。
「おばさん、こんにちは」
店に入り、カウンターに座っているお婆さんに挨拶した。そのお婆さんの確かな年齢は知らない。だが、俺がここに客として来ていた頃には、既に「お婆さん」だった。それでも「お婆さん」と呼ぶと叱られる。さすがに「お姉さんと呼べ」とまでは言われなかったが、ここに来る子供たちは皆「おばさん」と呼んでいる。もうそろそろ九十歳前後のはずだが、耳はそれほど遠くなっていないようだ。
「あら、ご苦労様です。何でしょうね?」
昔から変わらず、普段は上品な物言いのお婆さんに、少し気後れしながら駄菓子のゴミを差し出した。
「子供たちがポストに捨てているようなんですよ。おばさんからひとこと言って貰えませんか?」
お婆さんは近視の眼鏡をおでこにずらして、俺の手のひらに乗ったゴミを見ると、口をへの字に曲げた。
「あらまあ。貼り紙もしてるんですけどねぇ。えらい申し訳ないことでございますねぇ」
お婆さんがそう言って指差した入り口の扉には、確かに「ゴミをポストに捨ててはいけません」と太く赤い文字で書かれていたが、駄目だと言われればやりたくなるのがいたずらっ子の心情で、元いたずらっ子の俺も当然それは承知していた。
「まあ、たいした量じゃないんで、それほど困ってもいないんですが……。あ、そうそう。それと……」
ゴミの話はきっかけだった。これからが本題だと、俺はひとつ唾を飲み込んだ。
「二十歳ぐらいの女性がポストに何か入れるのを見たことありませんかね? ポストに落とし物……というか、間違って入れられた物があるんですけど、はっきり誰の物か分からなくて」
そう言って、お婆さんに折りたたんだままの手紙を見せる。自分でも苦しい言い様だと思ったが、これ以上に上手く言えなかった。だが、駄菓子屋のお婆さんは気にすることもなく、俺の質問に答えてくれた。
「いや、見たことないですねぇ。二十歳ぐらいの娘さんっていえば、寺島さんとこのお嬢さんじゃありません?」
寺島という名前は俺も思い付いていたが、家は山寄りでここからは遠く、仕事も農家でこちら方面に毎週出向く用があるとは思えなかった。寺島家から街に出るのも反対方向だ。だが、敢えて自宅から遠いこのポストを使っているとも考えらなくもない。
「寺島さんがポストに入れられているのを見たことはあります?」
俺の質問に、お婆さんは考える間もなく首を横に振った。
「いやぁ、最近は見ませんねぇ。お店にも、もう何年も来てないですもの。二十歳ですもんねぇ。お子さんでも生まれれば、また来てくれるかもしれんのやろうけれども、私の命が先に尽きちゃうかしらねぇ」
俺はお年寄りのこの手の冗談が得意ではない。曖昧な笑顔を返すぐらいしかできなかった。
「基也君には、お子さんはいらっしゃらないの?」
不意に名を呼ばれ驚いた。顔は覚えられているかもしれないとは思ったが、まさか名前まで覚えられているとは思わなかった。張り付けた曖昧な笑顔が引きつってしまったかもしれない。
「いや、私はまだ独身で……。じゃあ、あの、お邪魔しました。仕事に戻らないと」
こんな所でまで結婚の話題になるとは。だが、収穫はあった。店の中からもポストの背中が良く見える。人通りがほとんどないこの場所で、店の前を歩けば必ず目に付く。お婆さんが見たことがないと言うのならば、店を開けている時間には投函していないということだ。
何も分からなかったこれまでから、ほんの少しだけれどもひとつ前に進めた気がして、帰りの収集車のアクセルはいつもよりも軽く感じられた。
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