Good bye!

学生、カップ、変化

 キッカケさえあれば人は変わる。時間の経過如何では後戻りできないほどに変化に馴染む。貰った時は新品でも、不慮の事故で生じたキズと錆びつくほどの歳月で、新品とは似ても似つかぬ古びた優勝カップになるように。

 有機体が腐っていくように。

 夏の日差しを前にすれば、尚更に。



 あくる朝、金属ごみ指定袋を背負って僕は家を後にした。ゴミ捨て場は橋を渡った先にある。ずっと何かに足を取られながら、踵からアスファルトに沈ませていく。

 袋の中身がモロに露出しているので、出発は可能な限り早くした。ゴミ袋でずっしりと存在感を放つのは二年前の優勝カップ。ソフトテニスのさる大会で手に入れたもので、事情を知らない人に見られたら外聞がすこぶる悪くなる。第云々回云々大会優勝云々。上からマッキーで僕とカバネ二人の名前と「参上!」の二文字、当時流行ったアニメの怪獣が雑多に書き殴られているので詳細は不明。実体を得た高校三年間の記憶の塊だった。僕は今から、そんなものを捨てに行く。

 木の葉がふわりと肌をなぞってすれ違った。芯までは凍えないひんやりとした朝の風が、袋の中の金属と錆のような匂いを運ぶ。


 自室のカーテンのように叢雲が朝日を閉ざしていた。今年も夏が死んだ。こうした形でこの季節と別れたのはこれで二度目だった。


 吐いた息は白く濁り、中空に消える。


「は?」


 冬の気配はどこにもない。ただ、吐いた息が白い。今月はまだ九月のはずだった。手首の血管がどくりと脈打つ。内側から得体の知れない熱が湧く。外が寒いというよりは、自分が熱くなって、その結果として息が白くなっているような感覚。明らかに異常である一方で、これに懐かしさを覚える自分もいる。そうだ、全力疾走。持てる力全てを振り絞ってやりぬいた後の、苦しい達成感――それが既視感の正体だった。

 頭が痛い。今になってこんな記憶が刺激されるとは思わなかった。あるいは必然か。ゴミ袋が子泣き爺めいてのしかかかってきた。


 不気味に思いながらも足を進めて、むしろ歩幅は大きく、心臓が早鐘を打つにつれて一歩の間隔は早くなり、気が付けば対岸まで渡りきっていた。

 吐いた息の行く先を見ていた視線を下に落とすと、正面に一人、男が立っていた。


「よ」


 軽く左手を挙げて、待ち合わせに遅れた友人を快く迎えるような面持ちだった。足も息も途端に止まる。白みがかった視界が不意に晴れた。


「……、」

「あら? オレのこと忘れちゃった?」

「そうだな。ずっと忘れたかったんだって、最近になって気付いたよ」

「ひっでえ」


 タッハハ、カバネはいつもそう笑う。毎日のように遊んでいたが珍しく三日ぶりに会った、くらいの距離感だった。そんな訳がない。口を開く。


「急にいなくなりやがって。お前はいつもそうだ。真っ先に僕を引っ張り出してくる癖に、いつも最後には置いていく」

「だーもう昔のことをぐちぐち言いやがって! 終わったことじゃねえか、もう許してくれよ」

「……はあ」


 閉口したのはカバネの態度のためではない。ただ、多分この状況は何かの間違いだと直感した。カバネは二年前から病院に根を張る植物人間だ。となると目の前のコレは幻覚か幽霊かに違いないが、どうせなら狐につままれようと思った。相変わらず頭痛はしたが、例の苦しい達成感のせいで再び歩き出す気になれなかった。僕らはお互いに何か言うでもなく、傍のガードレールに腰を下ろした。


 それから話題は二転三転して、僕の近況にカバネが相槌を打つ形になった。ふと、三年の頃の担任が交通事故で全治五ヶ月の大怪我をした、という話をすると彼は目を丸くした。


「へェーイノ先が! あの人は車に撥ねられても受け身取ってピンピンしてそうだけどな」

「どうも轢かれたらしい」

「なら仕方ないか。まあ、今度会った時にオレの分もよろしく言っといてくれよ」

「言える訳ねえだろ」

「タッハハ」

「……否定しないんだな」


 数分ほど続いていた応酬がここで途切れる。五秒置いて、たはァ、と笑っているのか困っているのか判別しない息を洩らした。


「あのさァ、だってオレもう死んでるワケ。仮にオレが化けて出て、ただでさえ今際なイノ先の寿命縮めちゃったらどうすんのさ」

「じゃあなんで今になって僕の前に来た」


 先の沈黙とは違う。いつも考えなしに僕を引き回していたあの男が、言葉を選ぶような思考をしている気がした。


「 今は一人暮らししてんだよな? ちゃんと自炊してんのか」

「なんだよ急に」

「天ぷらを作ったことは?」

「ヤダよ揚げ物なんか」

「そーか。じゃあオマエにとっておきの話を教えてやる。オレは小学ン頃、鍋に油を引いたことがある」

「まさか自力で天ぷらを作ろうとしたのか?」

「お袋が揚げても美味いんだから、オレがオレのために揚げた天ぷらはもっと美味いに決まってるからな──それで、まあ引火した」

「おう」

「もっと驚けよ。いやとにかく、オレは慌てて水を持ってきたワケ。そんでそれを鍋にぶちまけようとした瞬間、オレはお袋にぶっ飛ばされた。DVじゃねえぞ? なんでだと思う?」

「高温の油が拡散するからだろ」

「そういうことだぜ」

「……は?」


 カバネは不敵に笑って二本指の手を突きつける。


「二年。いいか、二年だ。それがお前に必要だった療養期間。それまでは下手に水もかけてやれねえ」


 そう言って勢いをつけてガードレールを降り、歩き出す。こちらのペースなんかまるで考えない早歩き。また置いていかれる。昔と同じように。


「もう癒えてるみたいな言い草だな……!」


 小さくなった背中に言葉を投げる。距離が空いたからではない。アイツはあの頃から変わっていない。同年代より一回り大きかったはずの背中を、僕はいつの間にか見下ろしていた。

 気楽なグッド・バイ! ──そんな文言をプリントされているシャツを、アイツは後ろ前に着ていた。襟首に日焼け跡の境目が見える。かつては僕も、同じ模様をプリントしていた。


 高校の入学式──校舎の端──足跡のついた自分の制服──百円玉が転がる音──蛇のような笑み──人が人を殴る音──翻った学ラン──人を殴る人を殴る音──太陽みたいな、カバネの笑み。


 この二十年の中で、最も密度の濃い三年間だった。アレを経ずして僕はいなかっただろうと断言できるほどに。

 僕とカバネが仲良くなるのにそう長い時間は必要なかった。玉の汗のように眩しかった日々は今でも目の裏に焼き付いている。

 お互い未経験のままに強豪のテニス部に突撃したこと、学校を抜け出して海で遊んだこと、文化祭で王子様とヒロインの役を演じたこと、修学旅行でくじに細工を仕掛けて好きな女の子と肝試しに行ったこと──さる大会で、優勝候補を破って一位に輝いたこと。


 共に駆け抜けているつもりだった。その実、一から十までアイツの好奇心に引っ張られて、なすがままに足を動かしているだけだった。

 どこへ行こうか、どう走ろうか。そんなことを考えている暇は一秒たりともなかった。傍から見て明らかだったはずの事実は、カバネが足を止めるまでついぞ気付くことはなかった。ヤツに引っ張られているうちに、自分一人で足を動かす方法を忘れていたという事実。


 つまるところ、僕は今際で熱湯の只中ただなかにいることを察したカエルだった。寸前で気付いたところで、じわじわと茹で上がっていく未来を前に為す術はない。僕はもう、歩くことはできない。ヤツなしにこの先の人生をやっていける気がしない。

 アイツと積み重ねてきたもの全てから蝕まれている。その思い出は麻薬だった。カバネがいてくれたから僕は幸せな夢を見ることができた。しかしヤツのいない今、僕はクスリの調達手段を失った。この先の道に鮮烈な幸せはない。それを自覚し続けながら平坦な道を歩き抜ける自信がない。必ずどこかでドロップアウトする。そしてカバネが傍にいなければ平坦な人間でしかない僕は、きっとその時、副作用に殺される。

 だから、当たり前に歩いていけるはずの平坦な道を、当たり前に歩いていく方法があるのなら、僕は──


「オマエはもう大丈夫。優勝カップを抱えてここまで来たのがその証だ」


 見れば、ゴミ捨て場はすぐそこにある。


「……、いいのか?」

「? 何だよ今更。そんなの持ってたって辛いだけだろ? オレが言うなって話だけど、オレとオマエの選手生命は紛れもなく心中したんだぜ。

 トラウマでグリップを握れなくなったプレイヤーにトロフィーなんてなあ? さっさと捨てて別の趣味に打ち込んじまうのが賢明だね」


 事も無げな返事だった。僕がその答えに辿り着くのには二年を要したのに。今ですら、その正しさに自信が持てないのに。


「……ここまで来ておいて、だけどさ、これ、唯一のお前との思い出の品なんだよ」

「だろうな。お袋はもうあっちにいるし、親父はあんなんだし、オレん家の私物はとっくにゴミ処理場かな。思えばオレたち写真も撮ったことねーな」


 でもさ。

 カバネが、振り向いた。


「オレとオマエとの思い出は、普通に辛いんだよ。エモい訳ねえんだよ。どれだけ過程がキレイに見えても、血まみれの最期が最悪じゃないはずないだろ」

「……」

「もうオマエも気付いてんだ。だからトロフィーを捨てようとした。いくら洗っても、オマエにとっちゃこのトロフィーは真っ赤っかでさ、ずっと錆びついた匂いがするんだろ──?」


 事実で傷口を抉る音。幸せを捨てるとはこういうことだと、とうに理解していたつもりだった。

 ただ苦しい。何事もなかったかのように帰りたい。決別するのにこんな思いをする必要があるのなら、何もかも曖昧なまま、綿で首を縛られるように緩やかに苛まれていたい。錆びた牙で首筋を浅く裂かれ、とうとうと血を流し続けていたい。


 でも──カバネはきっと、それ以上に痛かったはずだ。

 延々と首を絞められる方が辛いとか、そういう話ではなくて。ただ、そうしておかないと、僕はアイツ──カバネの親友でなくなる気がした。

 証を捨てることになっても、それだけはずっと貫いていたかったから。


「ま、あんま心配すんなよ。こんなんになって分かったことだけどよ、人間って本当に忘れたくないモンはちゃんとココに残ってる。形ある思い出なんて無粋だぜ。

 ──分かるか。オレは、オマエを、赦す」


 そう言ってドンと胸を叩いた。そうした仕草に、そうした言葉に、今まで何度も背中を押されてきた。


「やっぱお前とっくに幽霊か」

「四捨五入すりゃそんな感じだ。だからさあ、もう見舞いに来んのヤメロよ。意味ねーし。オマエが欲しいモンはもう手に入っただろ」

「だな」


 でも、これで最後だ。もしかすると、その最後ってやつはずっと昔に迎えていたのかもしれないけれど。これは全て僕が僕を救うためだけに捏造されたもので、カバネはとっくに口なしなのかもしれないけれど。そんなことは究極どうでもいいのかもしれない。

 結局大切なものは前に進むことだけで、自力で歩くか背中を押されるか、背中を押された気になって何だかんだ自力で歩いているかは些末なことでしかないと月並みに思った。僕がその内のどれに該当していたとしても、二年前より前にいるなら何でもいい。たぶん、カバネもそう思ってる。


「つーかオレ、もうダメっぽい」

「そっか。なら早く済ませよう」


 優勝カップの入ったゴミ袋をぶんぶんと回して投げ入れる。硬い音が二、三度して、それはあるべき場所へ収まった。幸せが呆気なく、清々しく壊れる音だった。


「おし、そんじゃ」


 再開した時と同じように片手を上げ、カバネは僕の帰路と真反対の方向へさっさと歩き出してしまった。

 これで正真正銘、カバネは屍となるのだろう。


「次に会うのは百年先か」

「先に地獄で待ってるぜ」

「あっちの鬼によろしく伝えてくれよ」


 今度こそ小さくなった背中の上に、サムズアップが浮かび上がる。天を突く親指はくるりと反転し、真下──ではなくシャツを指差した。


『気楽なグッド・バイ!』




Fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Good bye! @Ren0751

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ