第30話 それは誰?

弥生さんが、長い里帰りから帰って来た。

赤ちゃんを産んだ後、体調を崩してしまった弥生さんは、しばらく入院していた。それで、退院後もずっと実家で過ごしていた。

だから家に戻って来るのは、4ヶ月ぶりになる。


赤ちゃんは光太郎くんという名前の男の子で、写真で見るよりずっと弥生さんに似ていた。



「花乃ちゃん! 麦茶!」

「どうぞ」


なぜか、弥生さんは帰って来て早々機嫌が悪い。


「授乳がなかったらお酒飲んでるとこ!」


もしかしてお酒の代わりに麦茶飲んでる?


「何かあったんですか?」


弥生さんが、きっ、とした顔でわたしを見た。


「花乃ちゃん、聞いてくれる?」

「はい、聞きます」

「今日、駅でバス待ってる時に、すっごい嫌なやつに会ったの!」

「そう、なんですね」


いつも笑顔が絶えないイメージだった弥生さんがこれだけ荒れてるんだから、よっぽど嫌いな人なんだろうな、って思いながら聞いていた。


「そいつ、大学時代、わたしの親友の彼氏をとったのよ」

「弥生、やめとけ。そんな昔のこと花乃に聞かせなくてもいいだろ」


キッチンにいた吉にぃが、話しを遮った。


「それは昔の話だけど、今日その女がうちの常連さんと歩いてるの見て、また誰かの男取ろうとしてるんじゃないかって、思い出しちゃたのよ」

「常連って?」

「ほら、ひとりでよく飲みに来てた……」

「誰だよ?」

「その人にべたべたしながら歩いてるの見て、イラってきたの! うちの客なんだから身内みたいなもんでしょ?」

「まぁ、そうだけど。でも、弥生が言ってるのはもう何年も昔の話だろ? 今はそいつも変わってるかもしれないだろ」

「いいえ! そんな簡単に人は変わらない! 花乃ちゃん、麦茶!」

「花乃、悪いけどちょっとだけ付き合ってやって」


吉にぃは、そう言うと光太郎くんの様子を見に奥へ行ってしまった。


「吉の常連さんって、どんな人なんですか?」

「人柄が良さそうな人」


全然わからない。


「その女、ムカつくけど美人なのよ。それできっと男は騙されるのよ」

「弥生さん、麦茶あんまり飲みすぎたらトイレ近くなりますよ?」

「……じゃあもうやめとく」

「グラス片づけちゃいますね」

「花乃ちゃんも気をつけるんだよ!」

「はいはい」

「筒井みたいなのが学校の先生とかありえない」


その名前でどきりとした。


「弥生さん、その人学校の先生なんですか?」

「そう。確かどこだったかの男子校で先生やってるはず」


男子校か……


「あの顔、絶対忘れない」


遠くで赤ちゃんの泣き声が聞こえた。


「あ、光太郎お腹すいたのかも。ありがとう、花乃ちゃん、少しすっきりした」

「役に立てて良かったです」


弥生さんが光太郎くんのところへ行って、しばらくして吉にぃが戻って来た。


「ごめんなぁ、弥生のグチにつき合わせて」

「ううん。怒ってる弥生さん初めて見た」

「あいつの言ってた親友、結婚式まで決まってたんだ。それを式の1週間前になって、男から『好きな女ができた』って、別れを切り出されて、ショック受けてだいぶ精神的に参ってなぁ、1年以上引きこもっちまった。弥生も一緒になってよく泣いてた。俺からしたら、すぐに心変わりするような男にも問題があったと思うけど」



吉にぃが話している間も、わたしは他のことに気を取られていた。

弥生さんが見た、吉の常連さんって誰のことなんだろう?

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