先生、さようなら

野宮麻永

第1話 いちごミルク

6月に入って、急にお父さんの海外赴任が決まった。

お母さんはついて行くことを決めたけれど、お姉ちゃんとわたしは学校のこともあって日本へ残ることを選択した。


姉妹だけでは心配だと言う両親に、お母さんの弟の久世吉正こと、吉にぃが「だったらうちの2階に住めばいいよ」と言ってくれて、お世話になることとなった。

吉にぃの奥さんの弥生さんは大家族で育った人で、身重のからだにも関わらず、「家族が増えるみたい!」と、吉にぃより喜んでくれた。




「花乃ーっ、これ3番」

「はーい」


吉にぃは、夫婦でこじんまりとした居酒屋「吉」を営んでいたけれど、弥生さんが出産で里帰りして、代わりにお姉ちゃんが、バイトがてらお店を手伝っていた。

そのお姉ちゃんが試験期間に入って、今度はわたしがお店の手伝いをしている。


「ねぇ吉にぃ、あの人、またかなり酔っちゃってるね」


時々来て、一番隅っこの席に座って、ひとりでずっと飲んでいる男の人。


「あー、だな。次に酒頼まれても断って」

「ん、わかった」


話をしてる側から、その人に呼ばれた。


「すみません、生中もう一杯」

「飲み過ぎですよぉ。店長がもうダメって」

「ああ……じゃあ、お会計」


いつもスーツにネクタイだから、見たところサラリーマンのこの人は、吉にぃいわく、GW前くらいからひょっこりお店に来て以来、3、4日おきに顔を出すようになったらしい。

そして、いつもお酒をたくさん飲んで、かなり酔っ払った状態で帰って行く。


「3,250円です」

「はいはい」


男の人は、財布から小銭を出そうとして、酔っているせいか財布ごと落っことしてしまった。それで小銭が床にばら撒かれる事態となった。


「すみません……」

「気にしないでください。わたし、拾いますから」

「いえ、僕も拾います」


2人でしゃがみ込んで、小銭を拾った。


「はい、これで全部だと思いま……」


初めて間近で見たその人の顔は、ちょっとかわいかった。

そして……


「本当にすみませんでした」

「あの……」


思わず言いそうになった言葉を飲み込んだ。

お客さんのプライバシーに、ずけずけと入り込むわけにはいかない。


「何か?」

「いえ、お気をつけて」

「家、すぐそこなんで大丈夫です」

「あ! やっぱり待って!」


不思議そうな顔でこっちを見る男の人に、ポケットに入れていた、いちごミルクのキャンディを渡した。


「これ?」

「どうぞ」

「ありがとう」


その人がにっこりと笑った顔は無邪気で、こういう人のことを「童顔」っていうんだろうな、と思った。


「ありがとうございました」



この人が小銭を拾いながら、ため息をついたのが気になっていた。


何だかとっても辛そうに見えて、思わず持っていたキャンディをあげてしまった。




この人のため息の理由を知ることはないんだろうな。

この時はそう思っていた。

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