第106話


 熱とは、体温とは、エネルギーです。


 人間は恒温動物であり、その体温を維持するために莫大なエネルギーを必要とします。


 その主たるエネルギー源は食事です。


 食料を食べることで我々は、極寒の地でも生命活動を維持出来るのです。


「おい、今日のレーションの数、足りなくないか」


 結局、ブレイク将軍達はルソヴェツ要塞を確保しただけでは満足せず、首都に向けて侵攻を再開しました。


 しかし、これは誰の目から見ても無謀な攻勢でした。


 ルソヴェツ攻略時点で弾薬もレーションも、残りわずかといった状況だったからです。


 今まで通りに食事をすると、首都に到着する頃に食料は尽きてしまう見込みでした。


「行軍中の食事は、今までの半分で我慢しろとさ」

「二人で1つのレーションを分け合うんだ」


 そこでブレイク将軍は、行軍中の食事は普段の半量に制限しました。


 1人分のレーションを2人で分けさせ、節約しようとしたのです。


「ふざけんな、お前食いすぎだろ! どう見ても半分以上減ってるじゃねーか!」

「元々の量が少な目だったんだよ、それでちょうど半分だ」

「嘘つけ、俺の飯返せ!」


 これがまた、よくない方針でした。


 兵士の間でトラブルが多発し、そこら中で喧嘩が発生しました。


 負傷者が増え包帯も浪費し、ますます兵士の腹は減りました。


「貴様らの統率力不足が原因だぞ。部下の手綱くらいしっかり握らんか」

「……申し訳ありません」


 ブレイク将軍はこれを前線指揮官の責任とし、「喧嘩が起きたら部隊ごと罰する」と触れを出しました。


 喧嘩が起きた場合は連帯責任として、小隊全員を食事抜きにすると触れを出したのです。


「てめぇらまた喧嘩してんのかぁ!! 殺すぞ!」

「ひぃい!」


 なので各部隊の小隊長達は、指導という名の暴力で兵士間の喧嘩を鎮圧しました。


 その結果、ますます部隊は関係が悪くなり、せっかく要塞攻略で上がっていた士気も下がり始めました。


「……どうぞ。自分は、少食なので」

「そんな訳にはいかんよ。しっかり食えオースちゃん」

「顔色悪くなってきてるぞお前」


 サバト連邦軍はそんな状態のまま、首都ヨゼグラード付近まで再び強行軍を行いました。


 この強行軍での脱落者は1000人を数え、3個中隊の人数に迫りました。


 つまり我々は行軍しただけで、中隊を3つ全滅させたのです。


 この被害の規模としては、ルソヴェツ要塞攻略より大きかったそうです。


「兵士にも家族が居ただろうに。こんな被害を出してまで、急戦する理由が『権力者どもの我が儘』とは」


 脱落した兵士は、路上に捨て置かれていました。


 名目上は『体調不良のため拠点に帰還』という事になっていますが、見殺しの様なものです。


 食料不足の為、今度は捨て置かれた兵士に食料もありません。


 倒れた兵士は空腹と凍傷に苦しみながら、味方の行軍する足音を聞きつつ息を引き取っていくのです。


 それは、いかなる心境だったでしょうか。



 自分の経験した中で最も過酷だったヨゼグラード攻略戦は、行軍中ですらこの有様でした。


 戦場は人の命が軽くなるといいますが、ここまで人命が雑に扱われている軍を見たのは初めてでした。


 そして自分もかつてここまで、他人の命に無頓着になった経験は有りませんでした。







 寒さは、思考を奪います。


 サバト式の高性能な防寒具をもってしても、氷点下の行軍というのは非常に辛いものでした。


 実は自分も気温が下がってから、調子を崩してしまっていました。


 体が熱っぽく、ぼーっとする時間が増え、気を抜くと倒れそうになるのです。


 恐らく、自分も流行り風邪に侵されていたのでしょう。



 発熱した状況では氷点下では風に吹かれるだけで、冷たさが染みてきて悪寒が走りました。


 サバトの冬は、気温より湿度が大事です。湿度が高くなると、風の冷たさが段違いに強まります。


 この日は雪がよく降って、強い季節風の吹く日でした。雪も降っていないのに、コートに霜がびっしり結露するくらいには湿度もありました。


 こんな日に皮膚を露出していると霜焼けになるので、頭までフードをすっぽり被って口を隠し、吐く息をコートの中に入れて体温を逃がさぬようにしました。


 そこまでやっても、ブルブルという身体の震えは治まりませんでした。


「あ、あは、暑い、暑いぃ」


 新兵より体力があり、燃費の良かった自分ですらここまで追い詰められていました。


 そんな状況なので、新兵の多いサバト連邦軍に大量の脱落者が出たのも無理はありません。


「アーリゾナフが全裸になって倒れたぞ」

「こいつ、何でいきなり服を脱ぎだしたんだ?」


 例えば自分達の仲間だったアーリゾナフさんは、突如として錯乱し服を脱ぎ棄て、そのまま全裸で眠るように倒れ動かなくなりました。


 あまりに寒すぎると体温調節中枢がバグって、暑いと感じ始めるようです。


 これは矛盾脱衣と呼ばれる現象です。体を鍛えていなければ、自分もこうなっていたかもしれません。


「……トウリ、無事か」

「だい、じょうぶ、です。ゴルスキィ小隊長」

「そうか」


 心身とも衰弱していた自分は、他人の事を気にする余裕などありませんでした。


 アーリゾナフ氏が倒れた時も、チラリと眼をやるのが精一杯でした。


 もしかしたらゴルスキィさんは、自分に彼の治療をさせようとしたのかもしれません。


 しかし、当時の自分のコンディションでは難しかったでしょう。


「やったぁ。アーリゾナフと食事ペアを組んでる俺は、今日たっぷり飯が食えるぞ」

「ふざけんな、皆で分け合うべきだ。アーリゾナフは、俺ら全員の仲間だぞ」

「やかましい、あんな少ない量を全員で分けれるか。今日は、俺が全部いただく」


 最初は倒れた仲間を心配していた兵士達も、この行軍中はむしろ仲間の死を喜び始めていました。


 真冬のサバトできちんと食事が取れなければ、死んでしまうのです。


 仲間が死んで食料の余裕が出来ることを、喜んでしまうくらいに追い詰められていたのでしょう。


 軍は、極寒で少しずつ狂気に支配されつつありました。




 一方。ブレイク将軍などの指揮官級も食事を減らしていたのですが、彼らは暖かい輸送車で運んでもらっていたそうです。


 極寒で行軍する必要がないなら、食料を半分にされてもさほど辛くはありません。


 だからブレイク将軍はこの『食事量半減命令』の重みをまったく理解しておりませんでした。


 我ながら名案だ、とすら思っていた節があるそうです。



 こうして多くの犠牲を出しながら、いよいよ我々は首都ヨゼグラードの東西方面に軍を進めました。


 そして、元は一般市民だった敵兵を相手に血で血を洗う殺し合いを始めることになります。


 その結末を、この戦闘開始前から頭に描いていたのは────恐らくシルフ・ノーヴァを含めても、一人も居なかったのではないでしょうか。










 そんな最悪のコンディションでヨゼグラード近郊に到着した我々は、まさに疲労困憊でした。


 マシュデールまで山の中で飲まず食わずの撤退劇を経験した自分でしたが、間違いなくあの時を上回る過酷さでした。


 あの時は気候が穏やかだった上、森により直射日光は遮られていました。


 水が飲めないのはキツかったですが、途中で1度水源を見つけ休憩も出来ました。


 しかし今回の行軍は、油断して倒れたら死ぬという精神的恐怖に加え、極寒が凄まじい勢いで体力を奪っていくのです。


 あと数日行軍が続いていたら、本気で危なかったと思います。


「おいオース、眼が虚ろだぞ。大丈夫か」

「はい、自分は、何とか」


 実際、自分は体調を崩して途中で倒れかけました。


 そのたびに、ゴルスキィさんが1時間ほど背負って自分を休ませてくれました。


 彼には、背を向けて寝れません。


「……無理もねぇ。この娘にゃ寒さに対抗するだけの脂肪が無いんだ」

「その体格で俺達によくついてきてるよ、お前」


 きっと、自分は低体温症に陥っていたのでしょう。


 十分な脂肪の貯蓄が無かったせいで、他の男性兵士より体温が奪われやすかったのです。


 夜、焚火の傍でしばらく休ませてもらうと自分の体調はだいぶ改善しました。


「オース、お前は小柄だしゴルスキィ小隊長の寝袋に潜っちまえ」

「筋肉暖房だ」

「む、よかろう。ただし上着とズボンは脱いで入ってくれ。雪がついて冷たい」


 そんな訳でやむを得ず、自分は就寝時にゴルスキィさんの寝袋に下着姿でお邪魔する事になりました。


 実は自分とゴルスキィさん以外にも、道中で寝袋を二人で共有して寝る兵士達も多くいました。


 しかしオースティン人で、かつ女性である自分を誘うのは少し躊躇ったみたいです。


「ゴルスキィさんは男好きだからな。オースも安心だろう」

「正直、俺もゴルさんと同じ寝袋が良かった。うらやましいぜオース」

「えっ」


 男性との同衾は抵抗はありましたが、ゴルスキィさんは安全なようでした。


 そもそもゴルスキィさんは変なことをしないだろう、という信頼はあったのですが……。


 そうだったんですか、やはり軍隊には多いんですね。



 因みに、筋肉暖房はとても暖かかったです。後、香水でもつけていたのかちょっと良い匂いがしました。


 逆に自分は、ゴルスキィさん曰く、ゾッとするほど冷たかったそうです。











「各員、戦闘準備。敵が、待ち構えているらしい」

「走れないっすよ。もう」


 そしていよいよ、首都を目前に控える平原に到着したころ。


 気温はより一層下がり、吹雪が吹き荒れて視界が悪くなってきました。


「吹雪が強くなってきている。冬入りしてねぇかコレ」

「ああ、冬入りしてるな。さっき小便が凍り付いた」


 サバトの冬は、想像以上の寒さでした。


 銃の撃鉄が凍り付き、弾を込めるのも一苦労です。


 唇を軽く舐めただけで、凄まじい冷たさを感じ参りそうになります。


「あ、ああ。もう嫌だ、何で真冬なのに1日中外に居なきゃならねぇんだ」

「体が、動かねぇよぉ……」


 冬に入ったことで、兵士たちのコンディションは限界に達しつつありました。


 体力的にも限界で、戦う前から何もしなくても全滅しそうな勢いです。


 新兵の多い部隊で、真冬に食料無しでの行軍は、どう考えても無茶でした。


 彼らは寒さに負け、戦闘どころではなくなっていました。


「よ、よく頑張った。今日は休み、鋭気を養え」


 流石のブレイク将軍も、この兵士たちの顔色の悪さを見て「流石にマズいな」と思ったのでしょう。


 我々は首都に攻め込む前日、かまくらを作って焚火を囲み、武器の点検と英気を養う時間を貰えました。



「今日は、いつも通り食事を取ってくれ。明日はいよいよ決戦だ」

「はは、は」


 この日は流石に、通常量の食事を出してもらえました。


 自分はゴルスキィ小隊の面々と身を寄せ合い、焚火を囲んで1人前のレーションを食べました。


 出発前の陽気な宴は何処へやら、誰もが死んだ目と乾いた声で笑うだけでした。


 垂れた鼻水を焔で溶かしながら、これまで5名が脱落したゴルスキィ小隊は、それぞれ無言で寝袋の中に入りました。






「ゴルスキィさん」

「どうした、トウリよ」


 その晩、寝袋の中で自分は、こっそりゴルスキィさんに明日の相談をしました。


「シルフ指揮官殿は、どのようなご様子でしたか」

「アイツが気になるのか」

「ええ」


 シルフは指揮官級なので、ブレイク将軍と同じく輸送車で移動をしています。


 ゴルスキィさんなど小隊長級がその輸送車両に出向き、小隊長経由で我々は詳しい作戦内容などを伝達されるのです。


「彼女が我々の生命線ですからね。この絶望的な戦いの中で勝機があるとすれば、彼女の鋭利な策謀に他なりません」

「……うむ、シルフは非常に頼もしく育ったものだ」


 はっきり言って、自分はこの戦いに全く勝機を見出せませんでした。


 この寒さで、兵たちが普段通りのパフォーマンスを発揮するのは難しいでしょう。


 それは自分だって同じです。この気温で今迄の戦場のように、機敏に行動できるとはとても思えません。


 一方で敵は、家屋の中で暖を取りながらしっかり飯を食って我々を待ち構えているのです。


 攻撃側の不利に加え、兵站も士気もパフォーマンスも不利となれば、普通に考えて惨敗するしかないでしょう。


「安心しろ。彼女はとても疲れた目で、髪に寝癖を付け、我々に作戦を伝達した」

「それは、安心していいのでしょうか」

「安心してよかろう。シルフがあんなに疲れるまで作戦を練ったのだ。吾は部分的にしか概要を知らんが、きっと素晴らしい切れ味の作戦に決まっている」


 ゴルスキィさんが言うには、シルフは疲れ切った顔をしていたそうです。


 彼女も自分ほどではないですが、華奢な体躯をしていました。年齢相応の女性相当で、少なくとも良い体格をしているとは言えません。


 もしかしたら体調を崩していたりしないかと、心配だったのです。


「もし彼女が風邪をひいていたとして、側近のエライア殿が献身的に看病するさ」

「そうですね」

「それよりトウリ、貴様の体調は大丈夫か。明日はいよいよ決戦だが」

「頑張ります。……自分には、まだ死ねない理由がありますから」


 何にせよ、シルフがしっかり作戦を練ってくれているのは朗報です。


 あの凄まじい戦略眼を発揮し、オースティンをとことん苦しめた彼女の智謀を今は信じるとしましょう。


「……では、おやすみなさい」

「しっかり休め」


 こうして、ちょっと毛深いゴルスキィさんの大胸筋の中で、自分は意識を手放しました。


 そしてヨゼグラード攻略戦における最後の平穏な夜は、ゆっくりと更けていきました。


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