第78話


 その光景を自分は、かつて西部戦線で見たことがありました。


 この世界の銃は、魔力による補助を受け発砲の際に光ります。


 それはきっと、多くの兵士が死ぬ間際に見た光景────


 銃弾の雨の中で輝く、オーロラの様に美しく冷たい星空です。




 我々11名は小銃と花火を手に別れて、木の陰や泥穴の中に隠れました。


 そして爪先から髪の毛まで葉や泥で迷彩し、息を殺して敵を待ちました。


 別れ際、ヴェルディさんに実弾を手渡されかけましたが、それは断りました。


 サバト兵の足止めが目的ですので、積極的に殺さなくても良いと思ったのです。


 実弾は節約し、1発でも多くフラメール戦線に持って行って貰うべきでしょう。



「……来ましたね」



 配置について間もなく、自分は複数小隊がこちらに歩いてきているのを見つけました。


 すかさず威嚇射撃を行いながら、花火に火を付けます。


 自分の銃弾が訓練弾だとバレるのはまずいので、敢えて近くの草木に当てるに留めました。





「……【盾】」




 敵も即座に、自分という脅威を認識して撃ち返してきました。


 自分は【盾】を使いつつ、こまめに位置を変えて敵を迎撃します。



 実はヴェルディさんから実弾を手渡された時、断った理由はもう一つあります。


 訓練弾には、殺傷性能はありません。


 殺傷性能が無いから、躊躇いなく引き金を引きます。


 少しの気の迷いが命取りになるこの状況で、自分は使用経験のほぼない実弾を使いたくなかったのです。




 1時間。


 自分たちは時間稼ぎすべき目標を、1時間と設定しました。


 そこまで時間を稼げれば味方との通信に成功するだろうという、あまり根拠のない目標設定です。


 しかしこういう終わりのない戦いでは、何かしら小目標を設定しておく方が兵士の士気は上がるのです。



 ……戦闘開始から、10分。


 自分の右方向から、銃弾花火の音がしなくなりました。


 そこに配置されていたのは、確かアレン小隊の新人兵士さんです。


 今から、右方向にも注意を払わねばなりません。


 確か、レータさんと言いましたか。……彼と言葉は交わしていませんでしたが、純朴そうな青年でした。



「……【盾】っ!」



 30分もすると、我々の陣地から鳴り響く銃声は半分以下に減っていました。


 しかしまだ、まばらに遠くで銃声花火の音が響いています。


 ロドリー君は、アレンさんは無事でしょうか。


 無事であることに何の意味もありませんけれど、生きていてくれればとても心強いです。




「……ぁっ!」




 ふと集中力が途切れた一瞬、自分は【盾】を出す事が出来ず被弾してしまいました。


 負傷部位は、右脚大腿ですね。右方向からの狙撃みたいです。


 自分はすぐさま転がって、右方向からの射線を切ります。


 そして銃声花火で誤魔化している間に、治療は終えることが出来ました。



「……ふぅ、ふぅ」



 油断してしまいました。今のは結構痛かったです。


 何が痛いって、残り魔力が半分ほどに減ってしまった事です。


 回復魔法は、【盾】と比べて魔力消費が多いです。


 まだまだ【盾】を使っていかなければならない以上、次に致命傷を負えば全快は厳しいでしょう。





「……あら」




 40分後。自分の手持ち花火が、とうとう無くなってしまいました。


 使用配分を間違えて、1時間持たずに使い切ってしまったみたいです。


 しかしこの頃になると、殆ど味方の陣地から銃弾の音がしなくなっていました。


 最初から、1時間分には足りなかったのでしょう。



「花火の終わりは、いつだって寂しいものですね」

『■■■ぁ!!!』



 銃声が鳴りやんだら、いよいよ敵の突撃部隊が突っ込んできました。


 少しづつ後退しながら必死に粘っていたのですが、いよいよ年貢の納め時みたいです。


 その場に留まると撃ち殺される気がしたので、自分は右方向にこそこそ移動しました。


 あわよくば早々に死んだ味方の銃声花火で、時間を稼ごうと考えたのです。



「っ! 【風砲】!」



 敵の突撃部隊が迫ってきて、ますます死の気配は濃くなってきました。


 そこら中に榴弾や銃撃が降り注いでいます。奴らは、本気で自分を殺しに来ているようです。


 殺されるまでに1秒でも時間を稼いでやると、自分は匍匐前進で移動を続けました。



「……アッ!?」



 いきなり背後で、大きな爆発が起きました。恐らく、投擲された手榴弾でしょう。


 自分の位置は、殆ど敵に特定されているようです。


 爆風範囲から外れてはいましたが、飛んできた木の枝で耳を大きく切ってしまいました。


 パクリと耳が裂けて、血液で耳穴が塞がれました。



 ……ですが、致命傷ではありません。


 血を拭き取れば、音は全然聞こえます。


 回復魔法は、まだ使わないでおきましょう。



「────ぐぁっ」



 爆風の位置から離れようと地面を這ったら、今度は右肩に大きな衝撃を受け木にぶつかりました。


 上腕骨が折れたらしく、ジーンと腕が麻痺し右腕の感覚がなくなってしまいます。


 見れば大きな動脈を損傷したようで、右肩から血が噴き出ていました。



「……くっ、【癒】!」



 これは、使わざるを得ません。


 腕が動かないと匍匐前進できないからです。


 この傷を放置すると、上腕神経が壊死して二度と腕を動かせなくなります。


 すぐに回復魔法で、治療するしかありませんでした。




「……ああ」




 軍靴の音が、迫ってきます。


 このままでは、敵に見つかって撃ち殺されてしまうでしょう。



「……自分は馬鹿です」



 腕を癒したのは、そんな敵に少しでも抵抗するため。


 せめて、訓練弾でもいいから敵に撃ち込むためです。


 だというのに、



「小銃、ひん曲がってるじゃないですか」



 先ほど自分が被弾したのは右肩でした。自分の命綱といえる、小銃を抱えていた場所です。


 そう。右肩を被弾した時に小銃にも被害があったようで、貸し出されたOST-3型小銃の銃身が折れ、使い物にならなくなっていました。





 そんな状況で腕を癒して、何になるというのでしょうか。


 丸腰の小娘が一人、戦場で何をなせるというのでしょうか。



「嗚呼。いよいよ」



 自分はコロコロと、何も考えず転がりました。


 転がって、少しでも敵から離れようと頑張りました。



「最期の、時ですね」



 ……被害にあった村々を見る限り、サバト兵は敵の死体を弄ぶ悪癖があります。


 自分の骸も、彼らの玩具として損壊されるのでしょうか。


 それは、少しばかり不愉快です。



「……わぷっ」



 何も考えずコロコロと転がっていたら、自分はストンと落とし穴に嵌りました。


 誰が、いやどんな動物が掘ったものやら知りませんが、最期の最期に何と間抜けな事でしょう。



「あー……」



 しかしその穴に嵌ってすぐ、自分は気づきました。


 その地面はまだ熱気を持っていて、臭い煙が上がっているのです。


 この穴は誰かが掘った穴ではありません。


 おそらく先ほど、背後で爆発した手榴弾で出来た爆発痕でしょう。


「……」







 一か八か、そのまま自分は土埃を纏って穴の中に寝転がりました。


 血の跡がべったりついた、右肩を上にして。


 こうすれば、手榴弾が直撃して爆死したように見えるかなぁと思ったのです。


 穴の中なので、ぱっと見で分かりにくい位置ですし。


 まぁ、見つかって殺されて元々です。自分達はもう十分、時間を稼げたと思います。



「■■■■……」



 すぐ近くで、サバト語が聞こえました。


 彼らは小隊を組んで、ゆっくり自分の近くに歩いてきました。




「■■■■!」



 やはり自分は、見逃してもらえませんでした。


 爆発痕の中でひん曲がった小銃を抱えて横たわっている自分は、敵のサバト兵に見つかってしまいました。




 殺すなら殺してください。


 弄ぶならどうぞご自由に。



 大好きな皆と果てるのであれば、死ぬのも怖くはありません。


 もとより、捨てた命です。



「■■っ!!」



 ズドン、と彼らは自分の腹に銃弾を撃ち込みました。


 自分は脱力したまま、その銃弾を受け入れて転がりました。


 鈍い腹の痛みで、吐きそうでした。



「■■■っー!」

「「■■」」



 その後サバト兵は自分の身体を弄ぶことなく、急いだ様子で前進しました。


 流石に遊びよりも、ヴェルディさん達の追撃を優先したようです。


 ……自分にできるのは此処までです。どうか無事に逃げ延びてください、ヴェルディさん。




 ……。


 まだ、ちょっとだけ、魔力に余りが、ありますね。







「────【癒】」







 自分は死んだふりをしてサバト兵をやり過ごした後、治癒しきっていない腹の傷を押さえながら移動を再開しました。


 大きな傷は何とか塞ぎましたが、自分の臓器は滅茶苦茶でしょう。


 ちゃんとした治療を行わないと、死にますね。



 そして、治療を行える場所まで撤退するのは無理です。


 周囲には凄まじい数のサバト兵の気配。


 這って動くのがやっとの自分が、逃げ切れるとは思えません。



「ロドリー君の、配置は、確か……」



 なので自分は、戦友ロドリーの下を目指しました。


 どうせ死ぬのなら、彼の傍で死にたかったのです。



 この辛い世界で、自分に残された大切な人。


 故郷も、親も、親族も、何もない自分にとっての縁。



 ……。



「死ぬ間際に近くにいた方が、来世で会える確率が上がりそうですから」



 出来ればあの日本で、彼と再会したいです。


 クラスメイトとか、近所の遊び友達とか、そんな関係で。


 ゲームで一緒にチームを組んで、楽しんで、ロドリー君と笑いあいたいです。


 そのためにも、あと一頑張り。



「……」



 数十メートルが遠いです。


 移動とは、こんなに時間がかかるものだったでしょうか。


 銃撃を受けた影響で、体がくらくらして頭が痛いです。



「……ロドリー君」



 それでも、それでも。自分は一人で死ぬのが嫌でした。


 あの口が悪く、心優しい少年の近くで、西部戦線の塹壕の時のように並んで眠りたかったのです。



「……っ!」



 死ぬ前に、一度でいいですから。グレー先輩も、サルサ君も、あの恐ろしい小隊長もいる西部戦線の塹壕で。


 お尻を押さえてシクシク泣いているサルサ君を笑いながら、アレンさんやヴェルディさんが見守る中、酒を飲んで頬を赤らめているガーバック小隊長の前で芸をして、


 冷たい土の上、夜はロドリー君の隣で眠りたかった。







「え?」

「……よう、おチビ」



 そんな願いをモチベーションに、必死で体を動かすこと100m。


 自分は、ありえない光景を目にしました。



「何だ、お前まだ動けてるじゃねーか。しぶといヤツ」

「……ロドリー君こそ」


 そんな事が起こるはずはないのです。


 あの敵兵が、ロドリー君を生かしておく理由なんてないのに、


「何で生きてるんですか?」

「へっへっへ。撃たれた後、そこの木の根に隠れてやり過ごしてやった」


 自分と同じように、こそこそ地面を這いつくばるロドリー君に再会したのでした。





「……すぐに手術をしないと」


 ロドリー君は重傷でした。顔は青く、腹部に青黒い皮下出血がありました。


 腹腔内で大量の出血が起きていることは明白です。


 今すぐ手術セットで治療しないと、助かりそうもありません。


「手術道具なんてあるのか?」

「……取りに、戻れば」

「じゃあ無理だろバーカ」


 ロドリー君は息をするのも苦しい筈なのに、ケラケラと自分を見て笑いました。


「かくいうお前も、大分顔色悪ィけど?」

「自分は一応大きな傷は塞いだので、もう少し持ちます」

「……致命傷っぽい傷が、肩と腹に見えるんだが?」

「まぁ、どっちも致命傷ですね」

「駄目じゃねーか」


 何が面白いのか、ロドリー君は自分を見て笑い続けました。


 それにつられて、自分も少しだけ微笑みました。


「あー。まさか死ぬ間際に見る顔が、お前とはな。おチビ」

「何が不満なんです」

「不満はねーよ。サバト兵に噛みついて死ぬ予定だったのに、当てが外れただけだ」


 彼の体力が、徐々に減ってきているのが分かります。


 ロドリー君の言う通り、彼はもう駄目でしょう。


 だからもう、焦って何かをする必要はありません。


「最期に、戦友と話が出来るなんて最高だ。これは夢かなんかじゃねーよな?」

「自分も、生きて動いているロドリー君を見て、一瞬夢かと思いましたね」

「だよな、どっちも悪運強いというか」


 ロドリー君は顔を青くしたまま、ゆっくりと顔を上げて木に腰かけました。


 自分も、彼に寄り添うように隣に座ります。


「流石は幸運運びラッキーキャリーだなァ」


 そして四方八方で銃声が轟く中、二人並んで青空を見上げました。


「あ、そうだ。おチビ、出撃する前、何か言い淀んだ言葉を聞かせてくれよ」

「え」

「最期の最期に隠し事なんざすんなよ。それ、例の言えない軍事機密か何かか? 気になってたんだ」


 ロドリー君はふと、そんな事を聞いてきました。


 彼はフラメールが侵攻してきたという悲報を、よほど聞きたいようです。


 ……今際の際ですし、話しても良い様な気もしますけど。


「そうです、非常に重要な軍事機密です。誰にも話せません」

「えー、ケチケチすんなよ」


 あの件を聞いて、ロドリー君は何を思うでしょうか。


 少なくとも、楽しい気持ちにはならないでしょう。


 いえ、きっと。物凄く悲しむと思います。


「……ふぅ、仕方ないですね。聞いても後悔しませんか?」

「しねぇしねぇ、知らんけど」


 確かにフラメール侵攻を告げてしまえば、自分の心は楽になるかもしれません。


 ロドリー君に隠し事せず死ねる、と言うのは魅力的に感じます。


 ……だとしても。


「それは、ですね」

「何だよ、勿体ぶるな」

「自分が……ロドリー君の事が好きだった、と。それだけの話です」



 自分は、死の間際の人にそんな現実を叩きつけたくはありませんでした。



「は? それが軍事機密?」

「ええ、非常に高度で重要な軍事秘密です」

「……。なんだそりゃ」


 自分はロドリー君に、最期まで嘘を吐きました。


 フラメールの侵攻なんて事実は、ありません。


 あの時言い淀んだ内容は、自分が意地を張ってロドリー君に恋心を伝えなかっただけという、陳腐な話にしたのです。


「いきなり泣き出すから、もっと何かやべぇ話かと思ったが」

「何を言いますか。とんでもなく大事な話じゃないですか」

「……はぁ、拍子抜けだ」


 ロドリー君は、呆れた目で自分を見つめました。


 構いません、存分に呆れてください。そして、フラメール侵攻を勘づかないでください。


「自分の気持ちを知って、どうですか。ロドリー君」

「いや、その。悪いけど知ってた」

「あう」


 悪いけど知っていた、と来ましたか。


 残念ながらそれはロドリー君の勘違いなのですが、指摘しないでおきましょう。


 こういう勘違いは、すごく恥ずかしいですからね。


「まぁでも、そうなら死ぬ前に言っとけよ。黙ったまま死に別れたら、悔いが残ったろ」

「死ぬ直前にフラれるのもな、と思いました」

「……」

「振るでしょう? ロドリー君」

「いや」


 もう、どうせ掻く恥もありません。自分がロドリー君に懸想していたという馬鹿な話を、持ち帰る者はいないのです。


 だったら存分に、死にゆくロドリー君を良い気持ちにしてあげましょう。


「そういわれてたら、じゃあ結婚するかって話になったかな」

「……え」

「もう他の女捕まえる時間もねぇし。あの世でグレー先輩に自慢するためにも、嫁さん作っとくのは悪くねェ」



 ……。



「しょうがないですね、ロドリー君は」

「何がだよ」


 ロドリー君は随分と、失礼な人です。


 彼は他に捕まえる女が居ないから、自慢する為だけに結婚相手を自分で妥協してやるとそう言い放ったのです。


 普通の女性が聞いたら、頬を張り飛ばすモノの不愉快発言です。


「良いですよ」

「あ?」

「ロドリー君がそこまで言うなら仕方ありません。籍を入れて差し上げましょうか」

「……何で、俺から申し込んだみたいになってる」


 ですが、まぁ。


 今まで何度も命を助けてきてくれた人なので、帳消しにしてあげます。


「じゃあ結婚しましょう。はい、成立です」

「お、おお」


 自分はロドリー君の手を取って、そのまま見つめあいました。


 ほんのりと、彼の顔に赤みが差した気がします。


「さて、我々はこれで夫婦ですけど。何か感想はありますか、ロドリー君」

「えー、そんなあっさり……。何かこう、指輪を嵌めるとかねーの?」

「無いですね。指輪が」

「そりゃそうだ」


 ロドリー君は少し微妙な顔をして、ポリポリ頬を掻いています。


 ですが、まんざらでもないような顔をしていました。


「……ロドリー君、貴方のファミリーネームは何でしたっけ」

「ロウだ。ロドリー・ロウ」

「じゃあ、今日から自分もトウリ・ロウと名乗りましょう。死ぬまでの間」

「あとちょっとだな」


 そろそろロドリー君の顔が土気色になってきたので、自分は彼の頭を膝においてあげました。


 膝枕です。


「あ、そうだ。自分のドッグタグ、ノエルを横線引いて消してロウに変えておきます」

「おー」

「これで意味を察して貰えれば、墓石を並べてもらえるかもしれませんよ」


 徐々に目の光を失っていく彼に、自分は優しく声をかけ続けます。


「何か、良いな」

「何がですか」

「結婚するって、嫁さんがいるって、良い」


 うすぼんやりと、ロドリー君は虚空を見つめながらそんな事を言いました。


 その目は最早、自分を捉えていませんでした。


「ありがとな、おチビ。俺なんか、好きになってくれて」

「……。不正解です、自分はおチビじゃありません」

「……ああ」

「自分の名前は、トウリ・ロウです」

「そっか、すまん」


 やはり、もうロドリー君は限界が来ていたのでしょう。


 自分の目の前で、徐々に彼の命の火は尽きようとしていました。


「ほんのちょっとだけ、夢がかなった」

「……」

「子供も孫もいねぇし、ベッドの上じゃないけれど。尻も胸もちっせぇ嫁が、看取ってくれるたぁ幸せだ」

「まったく」


 その、消えゆく命を抱きしめて。


「最期まで失礼な人ですね」


 自分は、動かなくなったロドリー君に嗚咽を零し。


「じゃあな。トウリ」

「また会いましょう。ロドリー君」


 静かに、唇を重ねました。







「……ああ」



 唇を離すと、彼は絶命していました。


 瞳は虚空を見つめ、全身の力が抜け、ずっしりと体が重くなります。



「アルノマさんの嘘つき」



 自分は、亡くなった彼にもう一度だけ口づけをしました。


 血と土と涙の味がしみ込んだ、哀しい唇でした。



「これが自分の、人生初めてのキスですよ」



 ああ、懐かしい記憶です。


 人生最後の休日、首都でアルノマさんの劇を見に行ったデートの時。


 勇者イゲルは、恋人を生き返らせたと言っていたのに。



「生き返らないじゃないですか、ロドリー君……っ!」




 自分は、敵に見つかる可能性すら厭わず。


 ロドリー君の遺骸を抱きしめて、声を上げて泣いたのでした。
















「……」


 お腹が、とても重たくて。


 眩暈と頭痛で、吐きそうになりながら。


「……ふぅ」


 自分は、敵の哨戒の目を縫う様に二人で・・・歩き続けました。


「もう少しですからね、ロドリー君」





 革のベルトを使ってロドリー君の遺体を背負いながら、自分は一歩づつ無我夢中に、前を目指して歩きました。


 背中の彼の体温が、どんどんと冷たくなっていくのが分かります。


 それがどうしようもなく悲しくて、唇を噛みしめました。



「……」



 タール川付近にはまだ、多くのサバト兵が展開されていました。


 右にも左にも、前にも後ろにも、濃密な死の気配が漂っています。


 自分はそんな地獄のような場所で、持ち前の勘で安全な方へと、フラフラと前進し続けました。




 足は重く棒のようです。口には血の味が広がって、腹は鈍く痛みます。


 だけどそれでも、自分には行きたい場所がありました。


 それは、



「ほら、ロドリー君。到着しましたよ」



 戦争中とは思えないほど、のどかで穏やかな水音。


 サバトとオースティンの戦争の幕開けとなった、タール川の川辺です。



「……綺麗な場所とは思いませんか」



 自分は背のロドリー君に話しかけながら、ゆっくりと川に足を踏み入れました。


 そろそろ、自分の命脈も尽きようとしているのが分かりました。


 ゴールにたどり着いたと気を抜いた瞬間、そのまま意識を失って眠ってしまいそうでした。


 しかしあと数歩だけ、意識を保って歩まねばなりません。



「ロドリー君の体を、敵に弄ばせるものですか」



 自分の目的は、ロドリー君を水葬する事でした。


 あのまま山の中に捨ておいて、彼の首でフットボールとか始められたら死んでも死に切れません。


 本当はアレンさん達も弔いたかったのですが……、自分の体力的に無理でした。



「それに、自分の骸に悪戯されるのも、良くないです」



 じゃぶん、と水飛沫を上げて自分は川の中を歩きます。


 膝元まで水に浸かったあたりから、急に一歩が重くなりました。


 それでも、ここまで来たのだからと全身に鞭打って前に進みます。



「一応、ロドリー君のモノですからね、この身体は……っ」





 自分は衛生兵です。自らの診察くらい、当然できます。


 腹膜炎、腹腔内出血、全身打撲、肩甲骨骨折。即座に後方の医療施設に搬送されないと助からない重症度です。


 ここからどうあがいても、自分が助からないことは理解していました。


 この時だって、ちょっと気を抜けば失神しそうなほど弱り切っていました。



 自分は、こんな状態で何をするべきか考えました。


 全てを諦め、ロドリー君と並んで寝るのも良いと思いました。


 ですが、そんな時。すぐ近くに、タール川のせせらぎを聞いたのです。



 どうせ命を失うなら、泥臭い土の中より綺麗な場所がいいなと。


 そう思った自分は、ロドリー君の骸を背負って歩き始めたのです。



「……」



 川が、だんだんと深くなってきました。


 二人分の体重で必死で踏ん張っていますが、足を滑らせたら一気に持っていかれるでしょう。


 もう少し、奥に。もう少し、深いところで身を投げよう。


 そうすれば、もっと遠くに運んでもらえる気がしました。



「おや」



 自分に背負われたロドリー君が、少し硬くなってきた気がしました。


 まだ死後硬直を起こすには早いのですが……彼の腕は自分を抱きしめる力が、徐々に強くなってきています。


「案外寂しがり屋ですね、ロドリー君は」


 そんな彼の腕を覆うように抱きしめて、髪を撫で。


「そんなに心配せずとも大丈夫です、しっかりベルトで固定していますので」



 やがて自分は体の限界を感じ、



「─────死がふたりを分かつとも、ずっと一緒ですよ」



 足の力が抜け、崩れ込むように水面へ飛び込んで。


 ゴボゴボという奇麗な水音と共に、自分は水流へ身を投げました。

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