囚われ人

紫野晶子

第1章 静音の話

第1話

 

 柿沢かきざわ 静音しずねの同居人、池野いけの のぼるは寡黙な人だった。一緒にいても、言葉を交わすのは挨拶の時か、何か用事のある時に限られていて、会話らしい会話をしたことはほとんどなかった。おはよう、行ってきます、行ってらっしゃい、ただいま、お帰り、おやすみだけで大抵の日は終わってしまう。それでも、今まで天涯孤独の身だった静音にとって、帰宅時に灯りがともっており、自分の帰りを待ってくれる人がいることは十分幸せなことだった。会話がなくても、いざというときボディーガードや看病要員になってくれそうな仲間がいると心強い。


 2人での同居生活を提案したのは静音ではなく、昇の方だった。2人で家賃を半分ずつ払えば1人で住むよりずっと安いし、家事も分担できて一石二鳥。同じ「施設出」の人間同士なら、よそ様と一緒の時ほど気兼ねしなくて済む。はっきり言って、完全に実用一点張りの同居だった。少なくとも昇の方に恋心らしきものは少しも見受けられない。静音に同居を提案するとき、彼は普段通りの、何の感情も読み取れない真っ暗な目で、最後にこう言った。


「他の人といたらしんどいけど、柿沢さんだったら近くにいても気にならないから」


 柿沢さんなら近くにいても気にならない、という後半の言葉には少し引っ掛かりを覚えたものの、1人より2人の方が便利だと言う昇の意見には納得できたので、静音は同居の提案に応じることにした。特にお金の問題…例えば食事にかかわる出費、家賃と光熱費・水道代といった基本インフラの使用料支払いなど…は収入の少ない静音にとっては死活問題だった。誰かと支払いを折半できたらとても助かる。

 

 同居生活は期待していたよりもはるかに快適なものだった。掃除は場所ごとに分けて交代で行い、洗濯も曜日ごとの交代制、料理は昇が行い、皿洗いは静音、郵便物をポストから取って来るのと、朝のゴミ出しは、気が付いた人がその都度やることになっていた。昇の作る料理は静音が作るものよりずっとおいしかったし、なにより家事を全部ひとりで抱え込まなくてもよくなったのがありがたかった。家事が減って浮いた分の時間を読書に回せるので、仕事が終わって帰ったらすぐ寝るという味気ない生活をしていた頃よりは少しは賢くなれた気がするのだ。それに、やることが少ない分、早く眠れるという利点もある。


 また昇の人柄も素晴らしかった…というより静音の好みに合っていた。静音が仕事の愚痴をこぼしても、昇は説教じみたことは一切言わず、静かに聞いてくれた。泣いている時は黙って隣に寄り添い、時には温かい飲み物を淹れてくれたり、果物を剥いてくれたりすることもあった。ときには手作りの焼き菓子でさえ用意された。そんな細やかな気配りと、出しゃばらない控えめな優しさが嬉しくて、静音はいつしか昇に惹かれるようになっていったのだ。

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