禍と福
「狂えないなら砕けてろ」
その後は、管理人である實がまずは二階にいる探偵と助手を呼びに行って、徹は何も言えずに立ち尽くした。
僕はギンに引っ付いた。死にそうだったから。
かなり限界だったと思う。拒絶されたらきっと心が割れていた。ギンはそんなことしないで、僕を受け入れた。
とんだ重荷だったろう。
だけど、他人の肌があったかかった。
「横野さんと命婦さんも呼びに行こ。な? ちょっと歩くけど大丈夫か」
「う……」
言葉が出なかったので、頷いた。
「じゃ、行こうか」
ギンはまだ實が呼んでいない一階の人達を呼びに行き、僕はギンと離れたくなくて着いていった。
一番近い横野の部屋の扉を、ギンがノックする。
「あの、横野さん? ちょっといいかな」
ぼうっと、僕は扉を見つめる。そのせいで、扉の向こうに集中できた。
──────声が聞こえる。艶かしい声だった。息切れしながら、床が激しく歪む音が聞こえた。二人分の声。喘ぎ声だ。
発情している匂い。潮の匂い。今はそれが傷に滲む。
ギンの肩を掴んで、自分より後ろにいかせる。
「某太郎……?」
鍵が歪むまで扉を蹴り続けて、金属音を響かせる。痛みが無くなるまで蹴って蹴って蹴り続けて、鍵を壊して扉を開いた。
部屋の中を見た。
心の噛み砕かれる音がした。
「ヒ」
どこまで夢中になれば、扉が開くまで気づかないのか。
だから人間は醜い。だから生命は醜い。こんな吹雪のこんなペンション、こんな事件が起こっているのに、少しでも延命されたらこうだ。
僕は二度と食事も性行為も睡眠もしたくない。
そこに居たのは横野と命婦。
または単に、
盛りのついた人間だった。
気づいたらそこから逃げていた。逃げてどうにかなる問題じゃないのに、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げ続けた。リビングから出た。階段を駆け上がった。自分の部屋に戻った。つまづいて、転んでしまった。顔を上げるとカーテンがズレていて、窓が僕を反射した。
そいつは確かにそう言った。
僕はそれを否定したくてまた立ち上がり、窓を開いた。猛吹雪が目の前にあった。雪の積もったベランダに裸足で踏み入った。僕はあの時を思い出していた。思い出し切った頃には、僕は、リビングから跳んでいた。
八寒地獄に飛び込んで、吹雪に晒された。風が強い、雪が重い、体が冷たい。
うるさいけど、どこよりも静かだった。
「褒めてよ」
何も考えず、雪に顔を埋めた。
何も考えたくなかったから。
「先生」
僕は、真っ白な視界で目を瞑った。
痛ぇ……
「──────ろう!」
うるせぇ……
「──────たろう!」
うるせぇって……
「──────ぼうたろう!」
ってか、誰だよそいつ……
「起きろよ、ぼうたろう!」
あーはいはい、分かりましたよ……
瞑った目を、俺は開く。
気づけば自分は体格の良い男に背負われていて、かなり若いが白髪の、赤い瞳の女が騒いでいた。身体が変に冷えていた。しかし脳は回っていた。
ここはどこだろう。建物の中らしかった。後ろに扉があった。黒い引戸、土間、下駄箱があったため、玄関らしかったが、前の扉は廊下に続いていた。
ここから見る限り、玄関扉の向こうに風除室らしきものはなかったが、外が猛吹雪であることがわかった。
体感、気圧が妙に低かった。空気の濃度が違って思えた。身体の異様な冷え方、そして格好も登山用ウェアの様なものを着ていたので、自分が雪山──それもかなり標高が高い地点にいることが分かった。
しかし自分は荷物を持っていなかった。登山をするなら必ずあるはずのザックを持っていなかった。加えて靴は履いていなかったし、ゴーグルもなかった。どこかで落とした可能性も考慮できたが、この白髪の女が騒がしく「ぼうたろう」と呼んでいるため、知り合い──それも同行者だろうことはわかっていた。その同行者に雪はあまりかかっておらず、しかし俺だけ雪に塗れていた。
同行者が健康そうな顔をしているのも、ここで十分休んでいること証明になった。
だから一度、このペンションには二人で来ている。そう思った。
片方だけ来ているにしては、不明な要素も多い。
そこで、自分の記憶を探ってみた。
何も無い──ことも無い。しかし、あるにはあるはずだが、思い出そうにも思い出せなかった。霞がかる、霧がかる、それと同じ様に、吹雪の中にあるイメージだ。探ろうとしても、吹き飛ばされる。
低体温症……意識障害……いや、にしては正常な思考。記憶も存在しているが開けないだけ。自分が何か妙な状態であることはわかった。
更に言うなら、これは自分自身で封じたことが分かった。
脳内、探ろうとすればするほど掻き乱される。この心はトラウマらしきものを持っているようだった。
一時的記憶障害にも思えなかったので、もっとまた別の……記憶喪失、人格形成、新たな自分。耐えきれないストレスによって、新たな自分に変わった──?
これは自画自賛とも言っていいが、今の俺にどんなストレスがぶつけられても壊れる気がしなかった。何かを封じるとも思えなかった。
だから別人──本人格が派生で作ったのが、今の俺なんじゃないかと推測した。
面倒事を、前の
「だ……」
第一声目、喉になにかつっかえるような違和感があったけれど、それも徐々に消えていった。
俺が声を発したことで、白髪の若い女は「ぼうたろう! 気がついたか」とリアクションをした。
「ダリィ~~~~~~~~……」
しかし、反応に反応では返さなかった。
そんなことより、俺に課せられた使命が、枷が、めんどすぎて……も~嫌だった。
「ぼ、ぼうたろう……?」
「あ〜……」
困惑顔、一番困惑したいのは俺だけど。しっかしどうするかねぇ、猫かぶって悲劇的記憶喪失になんのが一番楽だけど、今はそれすらめんどくせえ。
ひとまずは記憶を戻すことが大優先、第一人格とコミュニケーションを取りたいけど、それはただの憶測。無い可能性も十分ある。
必要なのは情報か……手っ取り早く情報を得るためには、質問をぶつけるしかない。
「そ〜〜〜〜〜〜だなァ~~、知ってるフリしても仕方ないし~……おまえ、名前は何? 俺の名前は何? 関係性はなに? ちなみに悪いけど、なーんも、覚えてませンっ! まっ、許してちょーよ!」
身体をいきなり動かすより、今は万全に動く脳を使うべきだ。と思って、ニコニコ笑ってウィンクで質問したら、「ヒ」と一言、何か壊れたみたいな顔で、白髪の女はぶっ倒れてしまった。
「あり~……?」
そこまでショックだったのか? ってことは結構重要な……大切な人間だったとか……?
「今淵……お前……」
俺を背負っていたガタイのいい男が、今の一連の会話で振り返って、俺を見た。
「覚えてないのか……? 本当に……」
身体に合わない生気のない面だなぁと思ったけど、何やら悲しいような、それこそ訃報を聞いたばっかみたいな顔だった。
「今淵って俺っち? いやー覚えてないんだよねー、下の名前もわかったりする? あとなんか辛いことあった?」
「……お前の名前は
詳しいことはさっき倒れた路銀って子に聞きゃいいのかな? 飛び込んだ……やっぱストレスか。
「ってか、こっちのはぼうたろーって呼んでたけど」
「さあな。ただ、お前も女鹿野のことをギンと呼んでいた。なにかしら理由があるのだろう」
「……ぎん」
確かに、その響きを知っている。ずっと前に知っている気がする。ただこんな、白髪の女は知らない。
「えっと、あんたの名前は?」
「……
「んなわけにもいかないって、あんたがおぶってくれたんだろ? 助けてくれてどうもありがとう」
「……助けられなかったよ」
眉間にしわを寄せ、その一言を絞り出すように発した。
なんとなくこの
それこそ、いまさっき気づいて、もう取り返しがつかなくなった、みたいな。
それと俺のストレスは、なにか関係あるかな……?
「この場所のことはわかるか?」
徹は、片手でギンという子を持って、もうひとつの片手で俺を持った。
なんだ? こんなことあるはずないのに懐かしいぞ。
「雪山ってことはわかるけど、ここはなに? 小屋? ペンション?」
「ああ、ここは
「へえ、ペンションはなんて名前?」
「……名前? すまん、わからん。詳しいことはリビングに管理人がいるから、聞くといい」
痒い。自分達の寝泊まりしているペンションの名前が分からない、なんてことあるか?
「じゃあまずリビングに行きたい、あったまりたーい」
今なんで、リビングってだけで暖かい場所だと思ったんだろう。
「……わかった。が、リビングでは少し、厄介なことが起こっている」
苦虫を噛み潰したような顔だ。さっきからこの人は、何を思っているんだろう。
「厄介なこと?」
「まぁ……見ればわかる」
玄関から見て左には、また引戸と洗面台。そして真っ直ぐには扉があった。そっちの方はなにやら人の声が複数していたので、リビングだろうことはわかった。
徹はリビングに向かわず、そこから少し右に逸れた。
そして、右の手前の方に螺旋階段。
そしてその奥、壊れて使えない扉があった。木片が飛び散って、かなりの衝撃により壊れたことがわかった。個室……トイレ……か?
何故か、赤茶色の液体で濡れていた。
徹は、そっちの方へ俺たちを連れてゆく。
その中を、見ることになる。
面倒なことを押し付けてくれたもんだよなぁ
「あ……あー……? まじ?」
一人入るだけで、いっぱいになるような個室のトイレ。
そこには、黒いコートを着た、壮年から中年の……四十ちょっとの男性が、便座をあげず、トイレに座っていた。
「この方は
座って、死んでいた。
血でびちゃびちゃに濡れて、死んでいた。
胸の当たりからどくどく血を出して、死んでいた。
「探偵が言うには、他殺らしい。今は、リビングに全員集めて、話し合いをしているんだ……」
話し合い、優しい言い方だ。行われているのは、口論だろうに。
「殺人事件かぁ~……」
どうやら前の自分が飛び降りなんてしたのは、このことが原因らしい。
「恨むぞぉ~? 俺……」
あーあ、わんちゃん自分も犯人って、マジかよ~!
僕は自分すら信じられない。だけどお前ならできるはずだよ。
頭の中で声がした。自分自身の声だったのだが、自分にしては隔たりがあった。自分すらも未だ曖昧で、幻聴の類──と言えばそうなのだろうが……
もしかして、この脳内の声が
俺の脳に住んでみているんじゃ……? おいおい、どこまで無責任だよ。
「つか徹ちゃん、探偵とは? 助手もいたり?」
「する。探偵は
神と神で弔い推理。どっかのセトみたいな話だな。
「いんのか。じゃあもう全部任せっきりでも……」
「それは、無理だ。探偵は臆病な性格。先生とは親交が深かったので、推理をしたがらない」
??????????????
「探偵が臆病で推理をしたがらないだぁ???」
なんのために探偵してんだ~?? こういう時のために頭働かせて事件解決するのが探偵じゃないの~!?!
「そして海見は波佐見と共に部屋へこもってしまった」
「えっ、じゃあ今なんであっちの方は口論起こってんの!?」
えー!? いま海見っつう探偵が責められてんじゃないの~!? じゃあなんで口論してんの~!? 普通なにが起こってんのか探るもんだろ普通! 現場証拠集めてんのかぁ!? おい! そんな時に雪に飛び込んでる俺も俺だわクソ死ね!
「あー! バカばっかだなぁクソっ! 徹ちゃんはそのギンってやつ部屋で眠らせといてくれ!」
徹ちゃんの手から抜け出して、自分の両足で立つ。少しふらついたが、思っていたよりずっと平気だった。
自分の身体ながら、この瞬間を待ち望んでいたみたいだ。
「お、おいっ! 今淵、どこへ行く!」
「リビング! 馬鹿なことを終わらせて探偵に推理させて……最悪自分で解き明かす!」
探偵による解決は
記憶では初めての歩行だったが、残骸のようなものが動き方を覚えていた。
リビングへ繋がっているであろう扉を開いて、一歩を踏み出した。
「ダゾー来訪者!!!!」
案の定そこはリビングダイニングキッチンだった。暖炉もあって、とても暖かそうだった。
さて、問題は冷ややかな視線くらいか。
ソファに座った黒髪の男、プリン頭の女、赤い眼鏡の茶髪の男。
おいおい、三人しかいないのに争えるなんて人間ってのは……
「よっ、初めまして皆様。記憶喪失です。お手柔らかに」
頬を抓って口角を上げた。道化の如く俺は笑った。
「なんの冗談だい? 今淵くん」
ソファに座っていた男がそう言った。冗談と言われても、事実なんだから仕方ない。
「んー、そうか。今淵禍太郎って名前なのか、俺」
なんか合わない。
そうだ、ソファに座った男以外の男女と目が合わない。気まずそう、何かあったのか? しかも二人……
「あんたら、俺となんかあった?」
「いや、何かあったって……お前……」
動揺こそしていたが、茶髪の男のそれは責めるような口調ではなかった。俺が悪い話ではないらしい。
「まあいいや、今なんのはなししてたの?」
「ねえ、あんた。口調と一人称変えただけで、記憶喪失なんか信じられる?」
今度はプリン頭の女。しっかしそう言われたってなぁ?
「信じる信じないじゃねー、事実なんだもん」
「ほんとに言ってるの……?」
面倒だな。臨機応変に飲み込んで欲しいもんだが、それは俺の都合か。
「マジマジ大まじよ〜、俺だってビビってんのさ。だからまぁ。仮として、
元気いっぱいに、三人へピースサインを向けた。
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