染矢くんは背中を押されて走り出します
「染矢くん、いま、なんて」
……まずい。
それだけはわかる、いや、それだけしか考えられない。
友瀬さんのこわばった表情が、かすかに上ずった声が、彼女の混乱を痛いくらい伝えてくる。
どうしよう、どうする、どうすればいい。
いまこそ俊一のためではなく、自分自身のために、神様でも仏様でもいいから、
「あの。わたし、は…………わたし何も、聞いていない、ので…………」
「あ……」
友瀬さんは床に落ちたスマホを拾い上げ、足早に去っていった。
思いつめた様子の彼女に何か言葉をかけたかったのに、枯れた喉からは空気が音を立てて漏れ出ただけで、意味のある言葉は何ひとつ出てこない。
遠ざかる彼女の背中を追いかけたいのに、一歩踏み出すどころか立ち上がることすら出来ず、辛うじて伸ばした腕は虚しく空を切っただけだった。
この二日間、友瀬さんと話すようになってからの記憶が激しく渦を巻いて、俺の思考をループさせる。
どうしよう、どうする、どうすればいい。
「ちょっと何してるんですか、早く追いかけて!」
「え、あ、いや……」
仮称『悲劇のヒロイン』さんが、責め立てるような視線を俺に送ってくる。
先ほどまでのしおらしさは見る影もない。
「あぁもう、さっさと立つ!」
「痛っっった!?」
思いっきり
痛すぎて思わず立ち上がっちゃ……あれ、立ててる。
「とにかく追いかける!」
「そ、そのあとは?」
「自分で考えなさい!人に殴り合えだなんだとか偉そうなこと言っておいて、自分はこのザマ!?」
……おっしゃる通り、返す言葉もない。
というか、冗談にしたって殴り合いはちょっとナシだろ、俺。
「そう、ですね。ありがとうございます、おかげで目が覚めました!」
言うが早いか、俺は走り出した。
「あ、ちょっと!ハンカチ忘れてる!」
「お守りに持っててください!きっと殴り合いにも勝てますよ!」
「頑張りなさいよ!」
「それはお互い様!」
チンピラを撃退してドロップした幸運のアイテムですよ、持ってればなんかいいことあるはず!
……よし、多少の減らず口くらいなら利けるようになってる。
大丈夫、きっと大丈夫。
なんか蹴られたところがめちゃくちゃ痛い気もするけど、きっと気のせい。
いややっぱちょっと強く蹴り過ぎですお姉さん、いい
少しだけ回るようになった頭でそんなことを考えながら、薄暗い廊下を駆け抜ける。
吹き抜けのエントランスに出たところで、自動ドアを通って外に出る友瀬さんの姿が見えた。
「大丈夫、絶対追いつける……!」
そう自分に言い聞かせながら、俺は彼女を追って体育館の外に出た。
空は相変わらず雲で覆われていて、太陽が顔を出す気配は少しも感じられない。
だというのに、湿気を帯びた空気はいやに肌に張り付いてきて、気温以上の暑さと不快感を与えてくる。
俺はひたすら走り続けた。
こんなに必死で走ったのはいつ以来だろう。
追いつこうとするほど、距離を縮めようとするほど、呼吸がどんどん辛くなっていく。
大きく一歩踏み出すたび、蹴られた方の足が痛みを訴えてくる。
でもその痛みは確実に、俺の背中を力強く押してくれている。
痛みはあっても、足取りはちっとも重くない。
とにかくまず友瀬さんに追いつく。
それだけを考えながら走り続けて、ついに彼女の肩に手が届いた。
「友瀬さん……お願いだから、ちょっと待って」
荒くなった息を少しずつ整えながら、前を向いたままの友瀬さんに話しかける。
呼吸が楽になっていくにつれて、頭の中にかかった
「べつに、さっきのを全部……無かったことにするのは、いいんだ。それが本当に、友瀬さんのためになるなら」
彼女の体温と鼓動が、肩に触れた手から伝わってくる。
「でも俺、言ったよね。『友瀬さんを応援する』って」
俺の言葉を聞いた友瀬さんの肩が、ピクリと跳ねた。
多分もう、大丈夫。
そう思って、彼女から手を離した。
「それを証明するためにも、少し……ほんの少しだけでもいいから、話をさせて欲しいんだけど……駄目、かな?」
「……わかり、ました」
ゆっくりとこちらを振り返った友瀬さんは、観念したような、それでいてどこか安心したような、複雑な表情をしていた。
「……とりあえず、座ろうか」
友瀬さんは無言で頷いた。
すぐ近くのベンチにふたりで腰掛けて、沈黙すること数十秒。
俺はひとまず、事実確認から始めることにした。
「さっき、どこから聞いてた?」
「その、王子くんには高校に入ってからできた好きな人がいて、それが初恋だって」
「……うん、全部事実だよ。俊一はいま、初めての恋をしている」
「そうなんですね……」
再び数十秒の沈黙、でも焦る必要はない。
俺はもう既に
「……友瀬さんは、どこまで知りたい?」
「え?」
「昨日の、俺の失恋話は覚えてる?ほら……玉砕したのが三人とか」
「あの……それもさっき、少しだけ聞こえていました……」
「そっかぁ……」
この三日間、俺の尊厳がひたすら破壊されている気がするなぁ……。
自分の目から
いやまぁ、どのみち話すつもりだったから手間が省けたとも言えるけどさ。
「ちょっとあんまりじゃないかなぁ……」
「染矢くん?」
「ごめん、なんでもない。こっちの話」
さてここからが本題、そして恐らく、一番精神的に辛い部分。
「俊一のやつ、多分だけど……その初恋の人以外と付き合うとは思えないんだ。だから、もしあいつの想い人を知ったら、友瀬さんが、その……傷つくことになるかもしれない」
俺の勝手な予想だったけど、さっきの反応でほぼ確信に変わった。
友瀬さんはたぶん、俊一のことが好きだ。
でも俊一は姫乃さんに、友瀬さんの親友に恋をしている。
その事実を知ってしまったら……友瀬さんがどうなるかわからない。
だってまだ、ちゃんと話すようになってから三日も経ってないんだから。
「それでも、どうしても知りたいなら――」
「教えて、ください。王子くんの、恋の相手を」
俺の目をまっすぐ見つめながら、友瀬さんは食い気味にそう言った。
彼女もまた、俺の話を聞いてしまった時点である程度、腹を決めていたのかもしれない。
この度胸は彼女の
……いや、これ以上はきっと、俺が立ち入って良い領域じゃない。
「わかった。ただし、誰にも……それこそ、一番の親友にも絶対に言わないって
友瀬さんの目を見つめ返しながら、俺は言った。
「はい、誓います。誰にも……由佳ちゃんにも、絶対に言いません」
「…………わかった」
俺は大きく深呼吸した。
……患者に余命を宣告する医者って、こんな気分なのかな。
そんなバカみたいなことを考えないと、正気を保っていられそうにない。
でももう俺も、友瀬さんも、あとには引き返せない。
意を決した俺は、口を開いた。
「俊一の初恋の相手は…………姫乃さんなんだ」
まるで、世界の時間が止まったようだった。
風が吹き、雲は流れ、木々は揺れていても、俺と友瀬さんの間に流れる時間だけは止まったようだった。
でもそれが続いたのも、数秒か、数十秒か。
永遠に思えた均衡は、彼女が流した一筋の涙によって崩された。
そのあとは
心が締め付けられた。
彼女にかける言葉が見つからない。
べつに、思考が止まったわけじゃない。
友瀬さんにかけるべき言葉が、いくら頭の中を引っ
せめて彼女にハンカチを……ハンカチ……。
……いまハンカチ持ってねぇわ俺。
なにが幸運のお守りだよ馬鹿野郎、情けなくてこっちまで泣けてくる。
仕方がない、何でもいいから話しかけて、友瀬さんにも話させて、少しでも早く彼女の涙が止まることを願うしかない。
「……友瀬さん、やっぱり俊一のことが好きだったの?」
「…………?」
涙こそ流し続けているものの、彼女は驚いたような表情を俺に向けてきた。
「ちが、そうじゃ、なくて…………」
ところどころ
しかし、いちど意思の伝達を諦めたのか、安堵の表情を浮かべながら
「よかったぁ……」
再び、世界の時間が止まった。
ただし今度は、俺の世界だけ。
「……はぁ?」
恐らくは数十秒後、俺の口から、いままでの人生で一番気の抜けた音が出た。
いや、いまなんつった友瀬さん?
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