(2)
……実のところあの場には彼女の護衛官――文字通り女性の身辺警護をする人物――がいたので、真一郎を襲った男はあっという間に制圧されてしまった。体をちょっと鍛えているだけの男と、身辺警護を仕事としている護衛官とでは力やらなんやらの差は決定的だった。
「あのっ、助けてくれてありがとうございます……あなたのお名前は――」……真一郎はまさか自分がこんな紋切り型なセリフを口にする日がくるとは思ってもいなかった。護衛官に後ろ手に拘束され、引き立てられるようにして連行される男を見ていた彼女は、真一郎を振り返る。
「私は……怪しい者じゃない」
「そ、それはわかっています。名前を聞きたくて……」
彼女は硬質な表情のままに、その真剣な顔には見合わぬどこかトンチンカンな返答をする。しかし真一郎も真一郎で、必死だった。女性が少ないのは、この学内でも同じ。振り返ってみれば、あとからいくらでも彼女の素性を調べるすべはあっただろう。けれどもそのときの真一郎は、どうしても彼女の口からその名を聞かねばとあせりを覚えた。
「
「鷹田、さん……。は、はい、大丈夫です!」
真一郎は口の中で飴玉を転がすように、何度もその名前を音にせず繰り返した。
――その後、真一郎を襲った男は停学になり、真一郎に平穏は……訪れなかった。真一郎のことが気に入らない男がいるのだろう。「尻軽」だとかいうくだらない噂は健在であるどころか、尾ひれがついてついでに火もついているような有様だった。しかし噂というものは積極的に訂正して回ったからといって、それに比例してなくなっていくかと問われると、そういうこともないわけで。
友人たちなどは憤ってくれたから、真一郎はちゃんとわかってくれている人間がいるならそれでいい、と思うことで、己の心にかかった雲に見て見ぬふりを決め込んだ。
そんなときだ。真一郎のもとに、彼女――鷹田響がやってきたのは。
「提案なんだが……しばらく私と付き合えば、そのようにくだらない噂も消えるとは思わないか」
真一郎に関するくだらない噂話は、どうやら彼女の耳にも入っていたらしい。どこか同年代の人間からは浮いた、かしこまった、硬い言い回しで響がそんなことを言い出したので、真一郎は仰天するほかなかった。
響は真剣に真一郎のことを心配してくれているらしい。先の出来事のときは、たまたま響とその護衛官が準備室を訪れたからよかったものの、そうでなければ最悪の事態になっていたことは、真一郎とてわからないはずがなかった。
「つ、つ、つ、付き合うってそんな――あ、いや、そういうフリなのはわかってます! で、でも、鷹田さんは――」
「私は今はハーレムを持っていないんだ。だから四六時中護衛官と一緒にいるのだが」
響はそう言って、空き教室の出入り口に控えている護衛官を見やった。たしかに、登下校の送り迎えを護衛官が引き受けるのは珍しくはないが、校舎内にまで同行しているのは、あまり見ない。女子生徒は付き合っている――そうでない場合もある――男子生徒をぞろぞろと連れているものだから、校内まで護衛官がついて回る必要は薄くなる。
真一郎が、響のことをよく知らなかったのは、単に貴重な女子生徒とは、自分には縁のない存在だと思い込んでいたからだけではないようだ。男子生徒を引き連れている女子生徒は、どうしたって目立つ。響は、そうではないから大して目立たない。そういう話だった。
「袖振り合うも――と言うことだし、私のハーレムに入ったことにすれば、不逞の輩も多少は遠ざかるだろう」
「鷹田さんは……いいんですか?」
「……私は、恋したこともないしハーレムを作るということも、まだいまいちよくわからない。いずれは社会への、女性としての義務として作るのだろうが。――難しく考えなくていい。あなたは噂の火消しができるし、私はハーレムの……そうだな、予行演習ができるとでも思えばいい」
実のところ、真一郎の心は響がその提案を口にしたときから、決まっていた。
「ふ、不束者ですが、よろしくおねがいします……その、できるだけ迷惑はかけないようにしますので……」
「……ふ」
言いなれない、かしこまった言葉を口にして真一郎が頭を下げれば、その後頭部に響のかすかな笑い声が降ってきた。
「敬語はやめてくれ。あなたは今日をもって私のハーレムの成員となったのだし、火消しをするなら親密な態度を取ったほうがいい」
「え、えーと……じゃあ、響、さん?」
「呼び捨てにしてはくれないのか?」
「え! え、えっと……ひ、響……」
「うん。その調子だ、真一郎」
ただでさえ女の子を呼び捨てにするなどという事態に見舞われて、顔に熱が集まっていた真一郎は、響から名を呼ばれてさらにその顔を真っ赤にさせた。そんな真一郎を見る響の目じりが、少しだけゆるんでいるような気がしたのは――己の気のせいではないと、真一郎は思いたかった。
「――おい、
真一郎は、響のハーレムの――偽りの成員となってから、彼女が「氷の王子様」などという異名を取っていることを知った。
まあたしかに、真一郎を颯爽と助けた様子や、真一郎を気にかけてハーレムの偽りの成員になればいいなどと言える
――で、あれば真一郎はお姫様なのだろうか? ……いや、それはなんかイヤだ、と真一郎は思った。男の矜持云々というよりは、王子様の助けを待つことしかできないような、なにもできないお姫様でいるのはイヤだと思ったのだ。
それに、真一郎は響のことがもう完全に好きになっていた。惚れ込んでしまった。強烈な恋愛感情で心臓をときめかせ、焦がせていた。
そうとなれば、するべきことはひとつである。
――響の心を射止める。彼女のハーレムの偽りの成員ではなく、正式な成員となり、響と真に愛し合う関係になる……。
そうと決めた真一郎に、もうただ己に自信がなく、女性との恋愛をあきらめきっていた姿は影も形もなかった。響への恋心が、真一郎を変えたのだ。
無論、変わったのは心持ちだけではない。響のハーレムの、偽りの成員となった日に、真一郎は親友であり、悪友とも言える
「悪友」などと評するからには、成大はひと癖もふた癖もある男だ。ちゃらんぽらんな性格がすぎて、女性と付き合えていたのに捨てられた過去がある。しかし、成大は曲がりなりにも女性と付き合えていた期間があるのだ。真一郎は成大を反面教師とすることで、響の心を射止めようと決めたわけである。
成大は良くも悪くもちゃらんぽらんなので、真一郎の計画に気分を害した様子もなく、ふたつ返事で教師役を引き受けてくれた。
かくして、真一郎が己の心身を磨く、血のにじむような努力は始まった。
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