第11話
僕は静かに頷いた。
「そこまでして、僕を殺人鬼に仕立て上げたいわけだな…」
「仕立て上げたいもなにも、お前は…」
「だったら殺してやろうか?」
そう言い放つと、男の胸倉から手を放し、ゆっくりと背筋を伸ばす。
男を見下ろすと、親指で人差し指を折り、パキリ…と鳴らした。
その乾いた音に、男の身が縮まるのがわかった。
「なにをするんだ!」
「自業自得だろう? 触らぬ神に祟りなし。犬にだって、ちょっかいかけなけりゃ吠えても来ないし、噛みついても来ない」
拳を握ると、振り上げる。そして、男の脂ぎった顔を殴りつけようとした…その時だった。
『青葉君、ダメだよ』
僕の耳の奥で、懐かしい声が響いた。
筋が引きつるような感覚と共に、腕が動かなくなる。
放たれた拳は、男の鼻先で止まった。
硬直する僕。腰を抜かして動けなくなる男。
見つめ合った二人の間に、謎の時間が流れた。
「こ、この、人殺しが!」
負け犬の遠吠えのようにそう吐いた男は、横に転がって距離を取った。
駐輪場のトタン屋根を支える鉄柱を掴むと、脚を震わせながら立ち上がる。そして、不時着する飛行機みたいに、ふらふらとしながら駐車場から出て行ってしまった。
僕はというと、人を殴ろうとするポーズのまま固まり、生ぬるい風に吹かれるだけ。
「ああ、くそ…」
泣きそうな声をあげ、その場にしゃがみ込む。
アスファルトを殴りつけ、行き場を失った怒りをぶつけた。当然、指の関節に焼けるような痛みが走り、血が滲む。
「もう…」
この甘ちゃんめ。人の言葉が理解できないやつは、畜生と同じだよ。殴ればよかったんだ。殴って、わからせればよかったんだ。それなのに、できなかった。別に、怖気づいたわけじゃない。里親の、静江さんと約束したからな。「人に暴力を振るわない」って。
人を傷つけると、自分が殺人鬼だという証明になる。
逆に人を守れば、自分が殺人鬼ではないという証明になる。
全部、大好きな母さんとの、約束だった。
僕は膝に顔を埋めた。
今日も我慢した。沸き上がった怒りは全部、腹の底に仕舞い込んだよ。誰も、傷つかなかったよ。えらいだろう? 今日もいい子にしてただろう?
でもちょっとだけ、疲れたよ。
「………」
目に涙を滲ませたとき、どこからか、パシャッ! と、シャッターを切る音が聴こえた。
振り返って見たが、人の気配はない。
僕は項垂れながら立ち上がる。
頬を伝う雫は、しょっぱかった。
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