転びそうな男

春雷

第1話

 駅前で、いとこと待ち合わせをしているのだが、なかなかやって来ない。今日は映画館で、「ゴジラ対ゴリラ対キリン」を見に行くつもりだったのに。一体どうしたと言うのだろう。メールも見てないみたいだし。

 8月の風が木々を揺らしている。行き交う人は忙しない。

 大学2年の夏休み。

 それにしても、暑い。Tシャツで汗を拭う。喫茶店にでも入って、アイスコーヒーでも飲むか。

 そんなことを考えていたところで、電話が鳴った。出ると、いとこからの電話だった。

 彼は、焦ったような口調で、待ち合わせに遅れて申し訳ない、でもこれには事情があるんだ、と言った。

「事情?」

「ああ、僕も、ちょっと突然の出来事だったんで、混乱してるんだけど、まあ、何ていうか、僕の親父が・・・」

「カネオおじさんがどうかしたのか?」

「転んだんだよ」

 背筋がヒヤッとした。転んだ?

「マジかよ。怪我は? 大丈夫なのか?」

 俺はそう訊いたのだが、彼の返答にはちょっと間があった。まさか。嫌な想像が浮かぶ。

「頭でも、打ったのか・・・?」恐る恐る、俺は訊いた。

 しかし、彼は違う、と答えた。

「違う?」

「いや、正確に言えば、転んでないんだよ」と彼は言う。

「どういうことだよ」

「そのなんて言えばいいのかな、僕も、よくわかってないんだけどさ」

「おいおい、どういうことだ。もうハッキリ言ってくれよ」

「その、親父、まだ転んでる途中なんだ」

 理解が遅れる。転んでいる途中? どういうことだ。

「僕だってよくわかってないんだ、でも、一目見りゃわかるよ、ああ、転んでる途中だなこりゃ、って」

「何を言ってるんだ、どういう状態なんだそれ。酔っ払ってるのか?」

「違うよお! とりあえず家まで来てくれよ。そうじゃなきゃ説明しようがないんだ」


 俺は仕方なく、いとこの家に向かった。

 インターフォンを押すと、彼が出迎えてくれた。

「よかったあ。僕一人だと、どうにも頭がおかしくなってしまいそうだったんだ」

 彼はそう言うと、俺をリビングに連れて行った。そこで俺は、目を疑うような光景を目にした。

 カネオおじさんが、転んでいる途中で、静止していたのだ。

 ビデオの一時停止のように、転んでいる途中で止まっている。何だこれは。マネキンチャレンジにしては、体勢がキツすぎる。っていうか、ほぼ足の親指一本で立っているような状態だ。しかも、前に倒れ込むような形で。もしマネキンチャレンジをしているのだとしたら、バランス感覚が凄すぎる。60を超えた成人男性とは思えない体幹だ。

「どういう状態なんだよ、これは・・・」俺は思わずそう呟く。そう呟かざるをえない。

「僕もまったくわからないよ。どうすればいいんだよ」

「おじさんが転んだ瞬間、見てないのか?」

「見てない。ドンキーコング2やってた」

「おい、出かける準備をしろよ。俺と約束してただろ?」

「いや、まあ、それは正論なんだけどさ、でも、一度ドンキーコング2をやりたいとちょっとでも思ったら、それはもうドンキーコング2をやらざるをえないんだよ。そういうものなんだよ」

「俺との約束を優先しろよ。そもそも、今日映画を観に行かないかって誘ったのはそっちだろう?」

「それもそうなんだけどさ、それだけドンキーコング2の魅力が凄いってことだよ。デビット・ワイズの音楽の引力だよ」

「知らねえよ」

 ふと、我に帰る。こんな話をしている場合ではない。

「そんな話はどうでもいい。シゲオ、お前は現場を見てないってことだな? おじさんが転んだ現場を」

「ああ、見てない。ただ、うわああ、っていう声が聞こえたんで、ドンキーコング2を一旦中断して、リビングに様子を見に行ったんだ。そもそも、ドンキーコング2の魅力というのは」

「おい、ドンキーコング2の話をしようとするな。そこに興味ねえんだよ、俺は。おじさんの話に集中しろ」

「でも、君とドンキーコング2の話をする機会なんて、そうそうないじゃないか」

「後からいくらでも作ってやるよ。転んでる途中のおじさんを目の前にして、何で、いつでもできるドンキーコング2の話をしなきゃならないんだよ」

「だけどさ、君はドンキーコング2をプレイしたことがないから、そういうことを言えるのであって、もしドンキーコング2を一度でもプレイしたことがあったのなら、君はドンキーコング2とデビット・ワイズの音楽の魅力の虜になって、もう

ドンキーコング2のことしか考えられなくなるよ。ドンキーコング2っていうのはさ」

「うるせえええ! 何回ドンキーコング2って言うんだ!」俺は叫んだ。本当にうるさく感じたからだ。

「ドンキーコング2はほとんど麻薬なんだよ」と彼は言う。

「じゃあもう規制しろ。そして捕まれ。いい加減、おじさんの話をしよう。脱線しすぎだ。おじさんが転んでる途中で止まっているこの現象に、何か原因は考えられるか?」俺はようやく話を戻した。ドンキーコング2の沼から抜け出した。危なかった。

「うーん」考え込むシゲオ。「僕ら二人が催眠にかかってるとか? 幻覚を見てるというか」

「どういう類の幻覚だよ。聞いたことねえよ、転びかけのおじさんの幻覚見ちゃってるんですけどおって。テレビとかでも見たことねえ」

「じゃあさ、親父が速く転びすぎて、ここに残像が残ってるとか」

「いや、カネオおじさんめちゃくちゃ動きのろいじゃん。うすのろじゃん」俺は指摘する。

「うちの親父をうすのろって言うなよ!」

「残像ならさ、触れられないってことだろ?」俺は言う「ちょっと触れてみてもいいか?」

「いいよ」

 俺は転びかけのおじさんに近づく。どうやら、箪笥につまづいて転んだらしい。顔を見ると、めちゃくちゃ目を見開いている。そうとう驚いたらしい。大人になってから転ぶと大変だもんな。

 俺はしゃがみ込んで、おじさんの股間に手を当てた。触れられた。

「小さいな」と呟く。

「おい!」とシゲオは叫んだ。「どこで確かめてるんだ! おじさんの大きさを確かめるなよ!」

「おじさんの股間はドンキーコング2じゃねえな」

「そりゃそうだよ。親父の股間がドンキーコング2なわけねえだろ。何だよ股間がドンキーコング2って。どういう状態を指すんだよ。そもそもドンキーコング2ってのは」

「あー待て待て。俺からそのワード出しておいてすまないが、その話はもう金輪際やめてくれ」

 とりあえず、触れられたということは、残像ではない。実体がここにあるのだ。そのことが証明された。

「動かせるかどうか、確かめてみよう。ちょっと押してみてもいいか?」

 シゲオが頷いたのを確認して、俺はおじさんを横からぐっと押してみた。しかし、まったく動かない。1ミリも動かない。ここまで動かないおじさんは初めてだ。岸辺露伴より全然動かない。

「もうこれは、ダメじゃないか?」俺は思わずそう言ってしまう。

「何てこと言うんだよお」

「もう、おじさんの剥製だと思って、暮らしていったら?」

「何てこと言うんだ!」

「剥製だって、ポジティブに捉えたら?」

「どんなポジティブだよ! いやだよそんなポジティブ!」

「でもさあ、おじさん、カチコチだよ。転んで驚いた顔してカチコチだよ。死んだも同然だよ」

「凄いこと言うねえ! いやだよ、驚いた顔で固まった親父の剥製がリビングにあるのは。どうにかしようよお」

 うーん、と俺は頭を捻る。しかしなあ、と思う。こんな状況、初めてだし、想定したこともないし、どういう風に解決すればいいのか、本当に検討がつかない。とりあえず、おじさんをよく観察してみるか。

 俺はじーっと、おじさんを観察してみた。ちょうど60歳って顔してるな。60歳より若くも見えないし、老けても見えない。ある意味貴重な存在かもしれない。年齢通りの顔の人。

 いや、そんなところを観察してどうする。

 しばらく観察してみた。すると、俺はあることに気づいた。

「おい、シゲオ、おじさん、少しだけ動いてないか?」

「え?」

 シゲオも近づいて、おじさんをよく見た。シゲオも、どうやら気づいたようだ。

「年齢通りの顔をしてる」

「いやシゲオ、そこはどうでもいい。そこじゃない」

「確かに、少しだけ動いているかもしれない。ほんの少しだけど」

「本当にちょっとだけ動いてるんだよな。マジで目を凝らさないとわからないけど」

「でも動いてるよ、これ。驚いた顔が、もっと驚いた顔になっている気がするし」

「どんだけ驚いたんだよ、カネオおじさん。こんだけ驚いた顔してるのに、まだのびしろがあるのかよ」

「親父、60にしてリアクション芸が開花したんだな」

 おじさんのリアクション芸ののびしろはどうでもいいが、この気づきはけっこう重要だ。解決の糸口が、見えた。

「つまりだ、シゲオ。これで問題は解決だ」

「え? どういうこと?」察しの悪いシゲオ。

「だからさ、おじさんは一時停止してるんじゃなくて、超スローモーションで動いてるんだよ。ということは、このまま転び続ければ、いつか転び終わる瞬間が来るってことだ。そうすれば、きっとこの現象も終わるさ。いつもののろのろ動くおじさんに戻るよ」

「うちの親父をのろのろ動くって言うなよ!」そして、シゲオは反論する。「この現象が終わるという根拠は? それに、親父が転び終わるまで、どれくらいかかるんだよ。このペースで行けば、下手をすれば年単位だよ」

「まあ、何年かはこの状態かもしれんな」

「待てないよ。気が気じゃないよ。しかも、転び終わったあとも、超スローモーションでしか動けないかもしれないし」

「じゃあ、もう、剥製とポジティブに思うしか・・・」

「だからそれポジティブじゃないって!」

「おじさんも、ほら、笑ってるし・・・」

「笑ってないよ! びっくりした顔でカチコチだよ! 目も口も大きく開いてカチコチだよ! ショッキング剥製だよ!」

 万策尽きたか。俺の頭ではどうにもならなさそうだ。これは、外部の人間に頼ってみるしかないな。

「なら、シゲオ、専門家に頼んでみよう」俺はそう提案する。

「専門家?」シゲオは今にも泣き出しそうだ。「ショッキング剥製の専門家なんているのか?」

「いや、まだおじさんがショッキング剥製になると決まったわけじゃ・・・」俺はシゲオを宥めるように言う。「専門家っていうか、俺のゼミの先生だよ。物理の先生」

「物理の先生に何がわかるんだよ」

「少なくとも俺よりはわかると思うぜ。不可思議な現象だけど、先生ならきっと解決してくれるさ」

 俺は先生に電話をかけた。すぐ行く、と返事があった。


 先生はしばらくおじさんを観察したあと、俺らに向き直った。

「これは通常の物理学ではありえない現象だね」

「でも、先生、現にこうして起きてますよ。ありえないって言っても、起きちゃってるんですよ」

 先生は眼鏡をくいっと指で上げた。賢そうな仕草。

「金田よ。私は、通常の物理学ではありえない、と言ったんだ」

「どういうことですか? 通常・・・?」

「つまりだ、これは通常の状況ではないということだよ」

「ど、どういうことですか」俺は先生に問う。「この空間がおかしいってことですか?」

「空間と言うよりは、世界がおかしいと言った方が正確だね」先生は部屋を歩き回りながら、言う。探偵が解決編でやる動きだ。「たとえば、外から我々の様子を眺めている者がいて、そいつがこの金田カネオさんに干渉し、彼の動きをコントロールしているとしたら?」

「え? それは、つまり、神様がやったってことですか?」俺は言う。

「そう捉えることもできるね」

「そんな馬鹿な!」

「だが、まあ、正確には神とはまた違う存在だろう。この状況を、いや、この世界を作り出した何者かがいるということは、確かだが」

「じゃあ、どうすればいいんですか!」シゲオが叫ぶ。

「簡単だ。色々な予測があるが、まずは、ここが小説の世界であると仮定しよう」

「はい?」俺とシゲオのユニゾン。

「シゲオくん・・・、いや、この場合は金田だろうな。金田、お前、これからこちらが指定した文言を独白しろ」

「え?」俺? 俺が、何をするって?

「心の中で思うだけでもいい。今から私が原稿を書くから、それを心の中で読み上げろ」

「それで、この問題が解決するんですか?」俺は理解がおいつかない。

「これが小説だった場合はな。シゲオくん、原稿用紙とペン、あるか?」

「あ、あります。持ってきます」とシゲオ。

 しばらくして、シゲオは原稿用紙とペンを先生に手渡した。先生はそれらを受け取ると、机に向かってペンを走らせた。数分で原稿が俺に手渡された。

「これを、読めばいいんですか?」俺は先生に訊く。

「ああ、そうだ。読みたまえ」

「じゃあ、読みます・・・」


 二日後、カネオおじさんは転び終わった。奇跡的に怪我もなく、おじさんは無事だった。シゲオも泣いて喜んでいた。先生のおかげで丸く収まったのだ。先生は、さすがだなあ。ノーベル賞を総なめにする日も、そう遠くはないと思う。よかったよかった。これですべて終わった。

 めでたしめでたし、というわけだ。

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転びそうな男 春雷 @syunrai3333

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