ミラージュオデッセイ

もしくろ

第1話

 ただただ広い、宇宙空間。その片隅で、一隻の中型船が漆黒と象牙色の合間をゆったりと漂っていた。

 太陽系第二惑星・金星の地表から数百キロメートル上空。そこは誰もが知る特別な名を一つ、有していた。

 女神の首飾り――ヴィーナストルク。


『じゃあ、行ってくるね』

 少女は無線でそう告げ、船のハッチから無音の空間へするりと滑り出した。白色のタイトな船外活動スーツの腰に繋がっている命綱が、ゆらゆらとたわみながら後を追う。

 少女の細い爪先が船の外壁を離れたとき、耳元のスピーカから男の声がした。

『リミットは3分、引き延ばしても5分だよ。迅速にね』

『うん』

『何かあったらすぐに引き返せよ。どうせミイラしかねェんだから』

『大丈夫、だよ』

 二人の仲間からの無線に鷹揚に返事をするが、少女の表情はけして明るくはない。視界を遮らないヘルメットの中から窺う風景は、喜ばしいものではなかったからだ。

 象牙色の美しい肌をした惑星よりも、まず周囲に漂っている鋼色の破片の方が目につく。

 そこは、死の宙域だった。



 少女はスーツの推進ユニットを巧みに使い、目当ての残骸へと進んだ。

 間近で見る金星の肌は美しさよりも吸い込まれそうな威容を覚える。加えて周りを漂う金属材の無惨な残骸が恐怖と緊張をかき立て、ヘルメット内側の小型モニタに映し出されるバイタルサインの上昇がそれを如実に物語っていた。


『で、ミイラはあったのか? 無いなら早く帰ってこい。つか、あっても帰ってこい』

『もう少しでつくと思う。――あっ』

 20メートル程度の四半球のような丸みを帯びた残骸を回り込むと、少女が衝突、すなわち死の危険を冒してまでこの空間に出た根拠が視界に入ってくる。 

『おい、どうした』

 耳元のスピーカから苛立ち混じりの怒鳴り声が聞こえてくる。少女はそれには返事をせず、まず目当ての物にそっと近付く。

 残骸自身に太陽を遮られているものの、金星が太陽光を反射しているので暗くはない。静謐で薄明るいそこには、二つの物体が並んでいた。


『おい、レイオ、聞こえてんのか!』

『大丈夫……見つけたよ』

 少女――レイオの返事で、デッキからの無線に溜息であろうざあっという音のノイズが入る。次に聞こえたのは、彼らしくもない懇願するような声だった。

『もう満足したろ。さっさと帰ってこい』

『うん。今から、持って帰る』

 二つのうち、一つは既に破損していた。レイオは残りの、一番奥に据えられたものに近寄る。

『何をだよ? ミイラか? ……おい、レイオ!』

 何を言っても怒声の返事が返ってきてタイムロスになることは間違いないので、レイオは黙って作業を始めた。既に残り時間は1分強。悠長にしている暇は無い。


 無線は繋がったままだった。ごにゃごにゃとマイクから離れた二人が喋っているのが聞こえてくる。

『ミイラって売れるかな?』

 直後に聞こえたごつんという鈍い音は、きっと鉄拳制裁のそれだろう。

 レイオは苦笑し吐息を漏らしてから表情を引き締める。そして静謐な場を荒らしたという僅かな後ろめたさと、固定を解除した棺のようなそれを抱えて命綱を手繰った。

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