ペンギンの国

秋待諷月

ペンギンの国(上)

 ぽてん、という音に視線を落とすと、キーボードの手前に置いたリストレストからペンギンが転げ落ちたところだった。

 体長は約七センチ。人の掌中に収まってしまう小さな体は、ころころと丸っこい。顔は白と黒の二色、体は灰色のふわふわとした羽毛で覆われ、外見はコウテイペンギンの雛にそっくりだ。

 春の光がオフィス内に差し込む、暖かな昼過ぎのことである。先ほどまではクッション部の上で幸せそうに寝息を立てていたのだが、寝相が悪かったのだろう。ペンギンは己が身に何が起きたのか理解できない様子で呆然としていたものの、僕と目が合った瞬間に全てを察したらしい。円らな瞳でこちらを見つめたかと思うと、「どうかした?」とでも言わんばかりに小首を傾げた。

「とぼけるなよ、この寝坊助」

 僕は黒い嘴を指先で軽く突く。起き上がりこぼしのごとく揺れながら、ペンギンは照れ隠しのように「ぺちゅん」と小さく鳴いた。その声を聞きつけて。

「先輩、いじめちゃ駄目ですよ。いくら嫌ペン家だろうが許しませんからね」

 僕の背後を通りがかった優男の同僚・濱中はまなかが、すかさず釘を刺した。顔をしかめ、僕は言いがかりを否定する。

「いじめてない。あと、嫌煙家みたいに言うな。別にペンギン嫌いってわけでもないし」

「そうなんですか? 先輩があんまりにドライなもんだから、てっきり嫌いなんだとばかり」

 濱中は意外そうに目を剥いて、彼のワイシャツの胸ポケットからぴょこりと顔を覗かせるペンギンに「なあ?」と同意を求めた。ぺちゅ、とペンギンが鳴き、濱中の相好がたちまち崩れる。

「お前がウエット過ぎるんだろ。一緒にするなよ」

 締まりのない顔に呆れ果て、僕は苦言を呈したが、濱中の耳には届いていない。どこからか小袋入りの乾燥小魚を取り出し、ペンギンに与えてやりながら、納得顔で「うんうん」と頷いている。

「そりゃそうか。あり得ませんよね、ペンギン嫌いなんて。こんなに可愛いペンギンを嫌いになる人間なんて、人間じゃないですよ」

 この無礼な言い草が濱中に限った反応であれば、僕も「ペンギン狂いめ」と揶揄うだけだろう。だが、一連の会話に耳を傾けていた周辺の同僚たちに、苦笑や呆れを見せる者はいない。「だよな」「そうそう」とでも言いたげな表情は、むしろ濱中寄りである。

 異端は僕のほうなのだ。

 僕が所属する経理部の配置人数は二十余名。オフィスで働く社員の誰もが、服のポケットや、肩から提げたポシェットや、各々のデスクの上に、一羽の小さなペンギンを伴っている。その事実に驚く者も疑問を持つ者も、もはやここには存在しない。


 いや――もはや、この日本には存在しない。


 はいはい、と適当な相槌で濱中との会話を切り上げて、僕は仕事を再開すべくモニターに向き直る。

 データ入力のために右手を伸ばせば、テンキーの対面にちょこんと居所を定めたペンギンが、僕を見上げながらキーの表面を両のフリッパーでぺちぺちと叩いた。僕は人差し指の背をペンギンの顔に添え、首元あたりを撫でてやる。ペンギンは気持ちよさそうに目を閉じて、「ぺちゅちゅ」と、くすぐったそうな声を上げる。

 心の中のモヤモヤが、すっと消えていく感覚がした。



   *



 国内で初めて「その」ペンギンが観測されたのは、今から二年前。とある地方の沿岸部、田舎の小さな古民家の庭先だった。

 なんでも、「隣家に見慣れない野鳥が住み着いている」という近所からの通報を受けて保健所の職員が訪ねてみれば、老夫婦が縁側で仲睦まじくひなたぼっこをする中に、二羽の小さなペンギンが混ざっていたそうだ。

 駆けつけた専門家が敷地内をくまなく調べたところ、床下や物置の中に複数のコロニーが見つかり、最終的には計二十羽のペンギンが保護された。

 それまでに世界で確認されていたペンギンは、分類方法にもよるが、概ね十八種。その中でも最小のコガタペンギンの体長は、成鳥で約四十センチだ。発見されたペンギンはそれよりも遙かに小さく、また、雛だとしたら外見的特徴とサイズとが合致しない。既知の六属十八種のいずれにも属さないことは明白だった。


 ペンギン目ペンギン科、ミニチュアペンギン属ミニチュアペンギン。

 それが、このペンギンに与えられた和名である。


 新種、それも国内での発見に、専門家のみならず日本全体が大いに沸き立った。

 いかにもか弱く、庇護欲を掻き立てる希少生物。絶滅させてなるものかと、研究施設で手厚く慎重に飼育を試みたところ――ほどなく、絶滅など杞憂であったことが判明する。

 繁殖力が凄まじく高かったのだ。

 発見当初はその外見から雛鳥だと思い込まれていたのだが、実は、それはすでに成鳥となった姿だった。番となったミニチュアペンギンは、ありあわせの材料で簡易な巣を作って繁殖行動を取り、一度に七つから九つほどの卵を産む。生まれたばかりの雛はヒトの指先ほどの大きさしかないが、ほんの数日の警護期ののち、共同保育所クレイシを作ったかと思うと、十日と経たないうちに巣立ちを迎える。

 わずか二週間の育雛期。ここからさらに急成長を遂げ、生後約一ヶ月で繁殖可能な成鳥となる。ハツカネズミばりの驚異的速度である。

 外敵とも悪天候とも無縁の快適な飼育環境と芳醇な餌、過保護な職員たちに囲まれてのびのびと繁殖を繰り返したペンギンは、まさにネズミ算式に数を増やしていった。最初の施設だけでは手に余るようになり、全国の水族館や動物園で分散して飼育するようになっても、その勢いは衰えない。

 ミニチュアペンギンは、発見からたった一年で、その数ゆうに一億羽を超えた。

 この尋常ではない繁殖力が明らかになれば、いくら新種と言えど「待った」がかかりそうなものである。しかし現実には繁殖が抑制されることはなく、どころか、既存施設のキャパシティを超えた頃から新たな専用飼育施設が次々と建設され、国の全面的バックアップの元で増殖計画が推し進められるようになった。

 理由は単純。

 このペンギンの存在に、国が並々ならぬ価値を見出したためである。



   *



「人間じゃない、とまでは言わないけど、変人と思われるのは無理もないんじゃない? 鉄平てっぺいほどペンちゃんに興味が無い人、そうそういないし」

 帰宅後、同棲中の彼女・成海なるみに今日の職場での出来事を語ったところ、返ってきたコメントがそれだった。僕と同じソファに並んで座っていながら、成海の関心の大半は僕にではなく、彼女の手の中で魚のマスコットと戯れているミニチュアペンギンに注がれている。僕は僕で、僕の腿の上で無意味にころころと転げているペンギンを眺めつつ、憮然として言い返す。

「誰が変人だよ。僕は至って正常。みんなの熱中ぶりが異常なんだろ」

「ペンギンに熱中する人がマジョリティなら、それが『正常』ってことになって、そうじゃなければマイノリティで『異常』ってことでしょ」

「そんな無茶苦茶な。ペンギンハラスメント反対」

 あまりの言われように肩をすくめて抗議すると、成海は「冗談、冗談」と快活に笑った。ようやくこちらに顔を向けたかと思うと、僕の顔と僕のペンギンを見比べて、でもさ、と続ける。

「真面目な話、鉄平はペンちゃんの効果が薄いのかもね。ほら、体質的に薬が効きにくい人っているでしょ? 睡眠薬とか麻酔とか」

「僕にも効果はあると思うよ。現に、この一ヶ月は禁煙が続いてるだろ」

「私や他のみんなは、その効果が鉄平より大きいってこと。なんにしても、心と体の健康にも、家計にも優しいんだもん。まさにペンギン様々」

「煙草代や、成海のストレス発散の爆買いの代わりに、ペンギン様の諸経費がこれだけかかってるんじゃなぁ」

 両手でペンギンを恭しく捧げ持って賞賛する成海に、僕は嫌味たっぷりにスマホの画面を突きつけた。僕と彼女で共用にしているクレジットカードの利用明細内訳には、高級ブランドのペンギン餌や、ペンギン用のグッズの品名がずらりと並んでいる。だが、明細を一瞥した成海はけろりとしたものだ。

「うちはたいしたことないって。私のとこの課長なんて、ペンゲル係数が高すぎて、住宅ローン組み直しする羽目になったらしいよ」

「よそはよそ、うちはうちだろ。あと、エンゲル係数みたいに言うな」

「ギンペイぃ、鉄平おかーさんが口うるさいよぉ」

「お母さん言うな」

 彼女のペンギン――僕の名前が「鉄平」だからという理由で、「ギンペイ」と名付けられた――に頬ずりして白々しく訴える成海に、僕は脱力した。次々と無節操にペンギン関連商品を打ち出すメーカーもメーカーだが、人間の残飯でも平気で食べる雑食ペンギンに、一缶二千円もする高級ペン缶を与える人間も人間だ。

「極端というか、やりすぎというか。たかがペンギンだぞ? みんなどうかしてるよ」

「なんでもいいじゃん。可愛いから」

「可愛いでなんでも済ませるなよ」

 短絡的な成海の思考が、この国のマジョリティかと思うと身震いする。

 僕は、名前を付けていない僕のペンギンを、腿の上で転がして心を落ち着けた。



   *



 ミニチュアペンギンには、既存種には見られない奇妙な生態がある。

 それは、一羽につき一人のヒトを、言わば「パートナー」として定めるというもの。

 繁殖行動とは全くの別ものであり、その目的もメカニズムも、依然として明らかになっていない。

 特定の個体に長時間接触するヒトが存在する場合、ペンギンは強い執着を示す、つまり、「懐く」ようになる。具体的には、可能な限りその人間に追従し続ける。まるで刷り込みをされたカルガモの雛のように。

 パートナーと引き離されたとしてもペンギンが困る様子は特に見られないが、再会すればまた同様に傍から離れなくなる。他の人間に目移りすることは無い。二人以上に懐くことも無い。さらに、ヒトのパートナーを定めたペンギンは、異性のペンギンと番を作って繁殖行動を取ることをしなくなり、ひたすらヒトに寄り添い続けるようになる。

 一途なのである。

 逆に、複数のペンギンが重複して同一のヒトを選ぶことも無い。例えば、十羽のペンギンに同時期に接触するのが一人だけであれば、その人間に懐くのは一羽だけであり、残る九羽は興味を示さない。だが、そこに二人目の新たなヒトが加われば、九羽のうちの一羽が懐く。どのペンギンにも懐かれなかったヒトも、誰にも懐かなかったペンギンも、これまでのところ存在しない。ペンギンの雌雄も、人間側の男女も年齢も外見も性格も無関係だ。ミニチュアペンギン一羽につきヒト一人。これが大原則であり、ペンギンの中で定められた掟のようですらあった。

 この生態は、ペンギンの発見から一ヶ月ほど経った頃から徐々に明らかになった。世話をしていた施設職員らが次々とペンギンに選ばれ、まとわりつかれるようになったのだ。当初こそ適切な飼育に差し障るとして、世話係を頻繁に入れ替える等の対応が取られたが、それもやがて有耶無耶になった。

 理由は、交代しうる職員全員がペンギンに懐かれてしまったため。

 そして、パートナー認定された人間のほうも、ペンギンから離れられなくなってしまったためである。

 この冗談のような異常事態は、ミニチュアペンギンだけに見られる、もう一つの不可思議な特徴に起因する。

 発見のきっかけは、研究施設の職員らが定期的に受けているストレスチェックだった。ペンギンに懐かれ、特定のペンギンと長時間を一緒に過ごすようになった職員のストレス値が、従前と比較して軒並み劇的に改善していたのだ。

 そもそもその頃には、職場の雰囲気が明らかに変わっていた。業務が立て込んでも誰も苛立たない。同僚や部下がミスをしても誰も怒鳴らず、なじらず、皮肉らない。ミスを犯した者が過剰に落ち込むこともなければ、開き直って周りに当たり散らすことも、急に休んでしまうことも無い。

 まとわりつくペンギンをうっかり踏んだりしないよう、作業着の胸ポケットにペンギンを入れて業務をこなす職員たちは、皆一様に、穏やかな微笑を浮かべるようになっていた。

 そして誰もが口を揃える。「ペンギンといると心穏やかでいられる」、と。

 この奇妙な現象を解明すべく立ち上げられたのは、ペンギンではなく、ヒトの精神医学を専門とする研究チーム。数ヶ月の観察と実験を経て、公表された結果は驚くべきものだった。


 「ミニチュアペンギンは、ヒトを幸せにする力を持っている」。


 無論それは、「可愛くて癒やされるから」などというふざけた理由ではなく、科学的根拠に基づいたものだ。

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