お金がない!

仁矢田美弥

お金がない!

 私は通帳の残高を見て愕然とした。何度も見直した。

『お金がない!』

 奨学金は確かに振り込まれていた。けれど、それが全額降ろされている。

『やられた! あのオヤジ、そこまでやるか』

 私は歯噛みした。

 そのままATMコーナーを駆け出し、即座にスマホを取り出す。

 呼び出し音だけが延々と続く。

 バックレる気だ。私は情けなくて涙が出そうになった。

 すぐさま学生生活課に駆けこんだ。

「が、学費猶予の手続きを……」

「学籍番号とお名前を……はい、野原結子さんですね、2年の。どうしました?」

「ち、父が、その、パク……いや、急病で、お金がかかって、えっと、は、払えないんです!」

 中年のふくよかな女性の職員は、眉をひそめた。

「落ち着いてね。大丈夫、手続きの用紙はこれです。提出してください」

 そして、用紙をもって去る私の背中に、声をかけた。

「心配でしょうけど、気を強く持って!」

 屈辱で固くなっていた私の背中に、その言葉は案外強く響いたのであった。

 ほんの少し息をついたけれど、それは一瞬だ。あの父親がお金を使い込んでしまったら、もう当ては本当になくなる。私は奨学金を学費に充てて、生活費をアルバイトでまかなっていた。アルバイトを増やすとしたって、学費を捻出できる可能性はほぼない。早くオヤジをひっつかまえて、取り返さなければ。

 今すぐにでも実家に駆け付けたい気分だったが、今日はカフェのアルバイトがある。はやる心を何とか鎮めて授業の後、バイト先に向かう。

 私がスタッフルームからカウンターに入ると、店長に声をかけられた。店長は30代後半の何となくいつもめんどくさそうに見える男性。

「野原さん、ちょっと」

 嫌な予感がしたが、それは的中した。

「突然だけど、店舗を閉めることになった。ここのところ、売り上げも落ちてたから。本部から言われちゃったから、どうにもならない。それで、アルバイトスタッフの皆さんは、今月限り……」

「そんな!」

 叫んでもどうにもならない。でも叫ばずにいられない。

 でも店長の面倒くさげな表情を見ると、抗弁する意欲さえ削がれてしまった。所詮雇われ店長、何を言っても無駄だと悟った。

 その日は一日、仕事に集中できず、ふわふわしていた。

 お金がない、さらになくなる。どうしたらいいんだろう?

 涙も出ない。

 他に塾講師をやっているが、かけ持ちは難しいしそもそも時期外れ。割のいいのは、やっぱり夜間のバイトだ。コンビニとか牛丼屋とか。とにかく当たるしかない。

 でも、学費まで稼ぎ出すのは無理。しかも限られた時間で。

 学生ローンは、借金に借金を重ねるわけで、気が進まない。

 私は本当に父を怨んだ。そりゃ、親は大学へ行けとは言わなかった。自分の意思でそうしたんだから、学費と生活費は自分でまかなうつもりでいた。でも、まさか奨学金をオヤジに着服されるとは。それは計算外。悔しい。

 カフェのバイトから上がると、私は疲れをものともせず、駅へ直行した。電話は何度かけても出ない。直談判するしかない。交通費が痛いけど、このまま手をこまねいている訳にはいかなかった。

 節約のために普通列車に揺られて、実家の最寄まで行った。北関東の地方都市だ。ああ、真っ暗。東京と違って駅前は廃れてるし、住宅街に入るとさらに暗い。

 そして、実家も暗かった。築何十年かの一戸建て。祖父母の代からある家。

 今は父が一人で住んでいる。母は3年前に病気で亡くなっていた。

 母の死が父を変えたのなら、まだ同情できる。だけど、実際は、母の存命中からオヤジはでたらめだった。定職につかない。私は高校時代からアルバイトして、塾や予備校にも通わず、必死の思いで勉強して志望校に合格したのだ。ここだけは譲れない。絶対に。

 けれど暗い実家の建物は不吉な予感がした。

 合鍵で玄関を開け、呼びかける。

「お父さーん、いるー?」

 予想通り、返事はない。家のなかは散らかって、散らかったまましんと静まり返っている。

 予想していたことではあるが、もぬけの殻だった。やっぱりバックレられたのだ。

 ああ、交通費がムダ金になってしまった。それだけでもいらいらしてしまう。お金がないって、神経病みたいだ。

 とにかく朝までは待とう。それがリミット。私は忙しい。

 やっぱりオヤジは帰らなかった。そして私は重要なことに気づいた。

 額縁に入れて部屋に飾ってあった亡き母の写真がどこにもないのだ。

 とんぼ返りで東京に帰った。

 午後からの授業には出る。

 授業の後、彼氏の悠太と会うことになった。LINEに連絡が入ったのだ。ちょっと明るい兆しにウキウキする。悠太とは1年の語学クラスが一緒だった。明るくて、ちょっと気弱そうな彼が私は好きだった。何となく、一緒にお昼を食べたり、映画を観に行ったりし始めて、つき合うことになったのだ。

 私はトイレに行って、鏡で髪型とメイクを直した。昨日は実家に帰ってそのまま来たから、きちんと整える余裕もなかった。でも、悠太に会うときはいつも完璧な形でいたい。そういう潔癖なところがあった。

 大学の近くのファーストフード店で会うことにした。

 同じ大学の学生が多くて、いつも混んでいるが、定番の場所だった。

 私が先に着いた。コーヒーを飲んで待っていると、知り合いの村上香澄が店に入ってきた。私はいやな予感がした。香澄は悪い子ではないが、私とはあまり共通点がない。それなのに、彼女は社交的、悪く言えば八方美人で、やたらと声をかけてくるのだ。

 今日は会いたくない人間の一人だった。

「あら、野原さん、一人?」

 案の定、香澄は私を見つけると笑顔をつくって声をかけてきた。向かい席に座りそうな勢いだ。私は本能的に制止したい衝動がはたらく。

「ううん、待ち合わせ。もうそろそろ来る頃だから」

 笑顔をつくろうとしても顔が引きつっている。実はそのくらい苦手なのだ。

「今度ね、試験開けの打ち上げで、みんなで遊びに行こうかって話になっているの」

 ころころとした高い声で香澄は続ける。さすがに前の席に座るのは諦めたが、まだ去る気配はない。「みんな」って誰のことだ? 香澄の話にはこういう主観的な「みんな」が多い。これがまた苦手なところだ。まるで「みんな」を代表しているように自分では思っているに違いない。

「野原さんも来ない?」

 とってつけたような誘い。本人にその気はないのかもしれないけれど。いつもの私なら笑って断ることができたかもしれない。でも、今の自分は臨界点ぎりぎりだった。

「いかない」

 自分で嫌になる。こんな素っ気ない言い方しなくてもいい。香澄に悪気はない。でも止まらない。

「私は《みんな》と違う。お金がないから」

 さすがの香澄も黙ってしまった。あいまいな表情を浮かべている。言葉よりさらに言外ににじんだ私の苛立ちに、戸惑っているみたいだ。

 はっと気がつくと、香澄の後ろに悠太がいた。今の会話を聞かれたような気がして、私は顔を赤らめる。香澄は気がついたらしく、「待ち合わせ? お邪魔しました」といって、別の席に向かった。

「出てもいいかな」

 悠太が言う。

「え、何で?」

 私は内心嫌だなと思いつつ、答えた。

「場所を変えたいんだ。ここはうるさすぎる」

 しぶしぶ私はコーヒーを飲み干して、トレイを上げた。

 どこに移るんだろう。あまり高くないところがいいな、と内心思いながら。

 悠太は先に立って、隣のビルの上階にある喫茶店に入っていった。

 私は内心がっかりした。もう少し気を使ってほしい。喫茶店は高いでしょう?

 でも、今日の悠太は少し妙だ。なんだか固い。

 喫茶店にはお客さんは少なかった。注文したコーヒーが来ると、うつむき加減だった悠太が顔を上げた。意を決したように言う。

「別れたいんだ」

 突然のことに、私はコーヒーを吹きそうになった。恐る恐る尋ねる。

「え、冗談よね?」

「いや、いろいろ考えてのことなんだ」

 悠太の目はあくまで真剣だ。私は何が起きているのか分からなかった。

 悠太はふっと苦笑を漏らす。

「別れるっていうか、そもそもつき合ってたとも言えるのかな、なんか、いつも結子はせかせかしてて、会う機会もそんなになかったし。俺、疲れちゃって。約束しても、いつも反故にされるし」

 「いつも」というのは嘘だ。そりゃ、何回かカフェのバイトのシフトが急に変わって、デートを断ったことはある。塾講師の授業の準備が大変なときも。

 だけど、「いつも」と言われると、反論したくなる。私は……。

「私は最大限会えるようにしてたんだよ」

 少し怒りが混じった口調になった。私は悠太に会えるのを楽しみにして、支えにして毎日を頑張ってきたのに。

 悠太は言いにくそうにしていたが、またこちらを向いた。

「ごめん。俺が100パーセント悪いのは自覚してる。でも、もうこれ以上は無理なんだ。結子は、なんていうか、立派すぎるっていうか、自活しているのって、素晴らしいことだと思う。でも、そういう結子の姿を見せつけられると、俺はいつも居心地が悪くて」

 私は絶句した。

「せめて愚痴でも言ってくれたら、俺もまだ……。いや、それでも時間の問題かな」

「教えて。嫌いになったの?」

 私は震える声で聞いた。

「嫌いとか好きとか、そういうんじゃなくて、何というか、いつも額にしわ寄せてるみたいなのを見るのが、耐えられないんだ。さっきだって……」

 香澄とのやりとりのことだと直感した。

 私は何と言っていいのか、しばらく声が出せなかった。いろんな想念が頭の中を駆け巡る。

 でも、悠太の表情は変わらない。もう、意志は固めているのだ。私はそのことを悟った。自分の底が抜けるような感覚になった。

「そんなに、嫌われてたなんて、思わなかった……」

「嫌いなんじゃない、ただ、合わないんだ」

 その言葉は「嫌い」と言われるよりいっそう私を打った。そこに、よりを戻す可能性はまったく含まれていない気がした。

 そんなつもりではなかったのに。私は悠太との付き合いがすべて裏目に出ていたことを知った。どこか見栄もあって、私は悠太に会うときは背筋を伸ばして頑張ってる自分をどこかアピールしていた。お金に追われていることの引け目がそこになかったとは言えない。それに、他のカップルのように頻繁に会ったりデートしたりできないことの言い訳もあった。そういうこと全てが悠太を居心地悪くさせていたことを、今私はくっきりと悟った。

「分かりました」

 私に言えるのは、それだけだった。

「帰るね」

 私はつぶやくように言って喫茶店を出た。自分の分の支払いを済ませ、去り際に振りかえると、悠太は俯いて自分のコーヒーをじっと見ている。悠太もつらいんだ。いやな思いをさせてしまった。自分が振られたんだから、もっと怒ってもよさそうだと自分で思いながら、不思議と悠太に悪いことをしたような感覚の方が勝った。

 はっきりと聞いたことはないが、悠太はアルバイトはしていないし、奨学金も受けていない。家は裕福なんだろう。そうだ、そもそも不釣り合いな関係だったんだ。

 そう割り切ろうと思いながらも、帰り道、涙が頬を伝った。人目など気にしないで、私は涙が流れるにまかせて歩いていた。そういう感傷が、今はいちばん自分を慰めるような気がしていた。

 それから数日間、私は授業とアルバイトの合間に、新たな仕事探しに打ち込んだ。求人雑誌、ネット、電話、面接。でも今の不規則な状態で、かつ季節外れで、なかなか条件にあってそこそこ稼げるアルバイトは見つからない。

 それでも、私は意地になって探しまくった。毎日へとへとに疲れていた。

 ふと、駅のラックから引っぱり出してきた「時間がなくても稼げる仕事!」と大見出しをうった無料求人雑誌の表紙に目が留まった。

 思わずごくりと唾をのむ。

 そうだ。この雑誌はぱらぱらめくってそのまま部屋の隅に放っておいたものだ。なぜなら、その中身は、お決まりの風俗関係が占めていたから。いくらなんでも、そこには手を出したくない。だから放っておいた。でも、今や……。

 「振られちゃったんだし、私に失うものなんてあるんだろうか」

 思わず独り言ちていた。

 翌日、私は恐る恐る電話をしていた。年齢と名前を告げると、あっさりと「今日面接に来られますか」と聞かれた。私は「はい」と返事し、場所をメモした。

 その日は、授業にも身が入らなかった。本当にいいのだろうか? 後悔することはないのか。いや、とりあえず面接を受けるだけで、無理そうだったら断ればいい。でも、気がつくと親指の爪を噛んでいた。自分にこんな癖があるなんて、これまで思ってもみなかった。みっともない。でも、これからもっとみっともないところに行こうとしているのではないだろうか。不安は尽きない。

 面接にはどんな格好をしていけばいいんだろう。やっぱり、男受けするような服装がいいのか。私はふだんシンプルな、どちらかというとボーイッシュな服装が多い。今日もストライプのシャツにジーパンだ。

 いったん下宿に帰って、もう少し女らしい服装に着替えよう。それでも面接の時間には間に合う。そう思って私は帰途についた。

 鏡台の前に座って、念入りにメイクをした。派手すぎない方がきっといい。でも隙なく。そうしながらまた涙が出そうになった。洋服は、とっておきのピンクのワンピースにした。

 したくができて時計で時間を確認し、外に出ようと玄関の方に向かった。4時だ。まだ十分間に合う。

 玄関ドアの取っ手に手をかけたとき、外から叩く音と声が聞こえた。

「おーい、いるのかぁ?」

 緊張感のないどら声、間違いない。

 私は力を込めて思い切り開けた。ドアを相手にぶつけるように。

「おわ」

 父はびっくりして目を丸くしていた。

 私は一瞬声が出ず、ゆっくりと息を吸った。ジェスチュアで中に促す。

 父はのこのこと中に入ってきた。私はきっちりとドアを閉め、鍵をかけた。

「お前の家の呼び鈴、壊れてるんじゃねえの、結子、音がしなかっ……」

「お父さん、お金、返して!」

 私は出来るだけ大声で叫んだ。隣近所に聞こえても構わない。恥を気にしている場合ではないのだ。

「お金ぇ?」

 一瞬父は凄むように大声をあげた。けれどすぐ、みっともなく顔を歪め、おいおいと泣き出した。私は呆気にとられた。いつもろくに仕事もしないくせに無駄に威張り散らしていた父の、真の姿であることはすぐに納得がいった。

「あいつ、どこか行きやがったんだよー。一緒に旅行に出たのに。有馬温泉までいったんだぜ」

 怒りが爆発した。娘の奨学金を着服して、温泉旅行に出かけていたなんて。我慢できず、私は父を殴ろうとしたが、父はそのまま殴られてしまいそうな雰囲気で、気勢がそがれ、私は軽くこづくにとどめた。

「あんたの恋路なんてどうでもいいわ。とにかくお金を返して! でないと私は学費が払えない」

 父は上目遣いに私を見た。

「お金、持ってかれたんだよ」

「ええ?」

 あまりのことに私は素っ頓狂な声を上げた。

「麻子の野郎、俺の金を持ち逃げして姿をくらましやがった」

 私は目の前が真っ暗になった。

 女に入れあげた挙句、その女にお金を奪われたというのだ。そのお金はただの金ではない。私の大事な奨学金なのだ。

 私はがっくりと膝をついた。もうおしまいだ。どうしようもない。

 私の絶望を尻目に、父は恥ずかしげもなく、その麻子という女がいかにひどい女だったかをぶつくさと語り始めた。酒場で誘惑されたらしい。すっかりのぼせ上っていた父は、温泉旅行をしゃれこんだ。

 愚痴りながらも父はいかに麻子がいい女だったかということも、いやらしい口調で交えて話す。私はもう、耳をふさぎたくなった。気が狂いそうだ。

 父は話の途中から、カップ酒を飲み始めた。

 私は立ち尽くしたままだ。

 怒りに身体が震えるって、本当にあるんだ。

 ああ、もうこうなったら、どうにでもなれ。急がないとアルバイトの面接に遅刻する、いやもう遅刻必至だが、行かないよりは行った方がいい。途中で電話してお詫びしよう。

 私は部屋を飛び出した。


「今日からでも仕事できますよ」

 面接の中年の女性は言った。

「ええ?」

 私は血の気が引いた。さすがに心の準備ができていない。

「すみません。今日は勘弁してください」

「そう、残念ね」

 女性の素っ気ない声を後にして、私は逃げるように風俗店を飛び出した。走った。だめだ。やっぱり、こんな仕事はできない。でも、それなら一体どうしたらいいのだろう?

 私は当てもなく夜の街をさまよった後、ようやく帰途についた。

 家に帰ると、ドアは開きっぱなし。父は座卓の上に腕を乗せて、酔いつぶれていた。

 私は、その傍らに座り込んで、声を殺して泣いた。

「帰る金がない。貸してくれ」

 翌朝悪びれることもなく父が言う。私はすべてを諦めきった心境で、万札を一枚渡した。父はおとなしく出ていった。 

 とぼとぼと歩きながら大学に向かった。もうどうしていいのか分からない。

 キャンパスで、向こうから来る人がぱっとこちらを見た。見ると、香澄だった。

「おはよう、野原さん」

 香澄はいつもの笑顔の後、少し首を傾げた。

「大丈夫? やつれて見える」

 大きなお世話、といいそうになった私の前に、香澄が小さい紙袋を出した。

「お土産」

「え?」

「この間みんなで鎌倉に遊びに行ったの。そのときのお土産」

 袋を開けてみると、かわいいお守りだった。

「これで運気上昇」

 香澄はにっこり笑ってそのまま何事もなかったように、歩いて行ってしまった。お礼も、理由を聞く暇も与えてはくれなかった。私は呆気にとられていた。香澄とはお土産をもらうような仲ではなかったはずなのに。

 その日、授業の後カフェのアルバイトをして帰途についた。

 スマホが振動した。見ると、知らない番号だった。迷ったが、もしかしたら昨日面接に行った店の人かもしれない。私は電話をとった。

「もしもし、野原結子さんですか?」

 知らない女性の声だった。

「はい、そうですけど」

「今すぐ会いたいの。そうだ、あなたの大学が分かりやすくていいわね。私も近くに来ているのよ。正門の前で待ち合わせでいいですか」

「え、どういう」

「来てもらえば分かります。私、白石麻子と申します」

 私の心臓がどくんと鼓動した。「麻子」、大人の女性の声。間違いない。

 正門の前まで戻ると、そこに、赤いワンピースの中年の女性がいた。顔立ちはきれいだが、どこか荒んだ雰囲気があった。そういえば、昨日の面接の相手が、こういう空気を漂わせていたっけ。

 もう正門付近に人通りは少なく、向こうも私をじっと見ている。

 顔を知らなくても、お互いに分かった。

「野原結子さん?」

「はい」

「ここではなんだから、喫茶店にでも入りましょう」

 コーヒーを注文すると、白石麻子は、ありふれた茶封筒をとりだした。

「はい、お金。耳をそろえて返すわ」

 私は目を瞠った。思わず手が出た。封筒の中身は数えずとも見当がついた。確かに耳がそろっているらしい。

「どうして?」

 震える声で私は聞いた。お金をぎゅっとつかみながら。

「どうしてって、あなたのお金でしょう? 煙草いいかしら」

「はい」

「あなたのお父さんを誘惑したのは悪かったと思ってる。あの人、気前のいいことばかり言うから、ついからかってみたくなって。温泉も行きたかったしね。でも、まさか娘の金を着服するなんて思ってなかったの」

 ふう、と白い煙を吐き出した。

「旅行に束で現金持ってくる人ってあまりいないでしょ。それで問い詰めたら、ぬけぬけとあの人、白状したのよ」

「あ、ありがとうございます」

 私はやっと言った。

「謝るのは私の方。私はね、これでも大学行きたかったんだから。家の事情で諦めたけど」

「そうだったんですか」

「だから、黙ってられなかったわけ」

 私は泣いていた。白石さんは、煙草を片手に私を見ていた。

 しばらくして言った。

「今の時代、いろいろ大変だと思うけど、諦めないで頑張りなさい」

「はい」


 翌日、私はさっそく学費を納めた。

 それから、新しい仕事探しを始めた。

 今までよりはきつくなるかもしれない。でも、頑張れるような気がしていた。


(おしまい)

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