叫び

天津

叫び

 暗い部屋の中にいた。私は空腹で目が覚めた。私は置かれた現状が現実であることをいまいち飲み込めていなかったが、空腹によって確信を得た。というのも、異様な空間であったのだ。私が横たわっていたベッドだと思っていたところは、どこまで慎重に探っていっても縁が見当たらない。そのうち壁に行き当たり、実はふかふかの床の上を這いずり回っていたことが判明する。また行き当たった壁というのも未知なもので、吸いつくようにもちもちの手触りなのだ。

 それから私は、暗闇の部屋の中を雑巾掛けをするように隈なく探り歩き、要所でジャンプして天井の高さを確かめた。結果、部屋の中には何もなく、天井は中央がやや高いドーム上になっているようだとわかった。

 一通り確認し終え、私は倦怠感と空腹感を覚えた。それでようやく、この奇妙な状況が現実であるのだと実感されてきたのだ。

 私はじわじわと事の重大さを自覚した。部屋をうろついて確認した通り、この部屋には何もない。つまり食糧もない。壁は大雑把に確認したところでは出口が見当たらない。つまり逃げ出すこともできない。

 このままでは早晩餓死してしまう。そこで体力のあるうちに再度壁を調べ直すことにした。どこまでももちもちの壁が続く。床もふわふわなので、長く歩くと疲れてくる。壁に寄りかかり手のひらで押すと、ある程度沈みこみ低反発で戻ってくる。一向にドアノブや切れ目は見つからない。

 私は床に倒れこんだ。ぼふりと衝撃が吸収される。体重が分散される心地は、かつて寝ていたベッドより数段心地良い。と思いを巡らせて、そのかつてのベッドの記憶がいったいどれくらい前のものなのか見当がつかないことに気づいた。そもそもどのような生活をしていたのかも曖昧だった。寝て起きて食事を摂って、働いていたような感触は残っているものの、具体的な勤務先も、人間関係も、自分の名前も性格も思い出せなかった。

 思い浮かべられる映像はいくつかあった。山手線の列車をホームで待つ光景や、よく行っていた定食屋のミニ親子丼付きのざる蕎麦セットなど、断片的な映像とそれが何であるかの対応づけはうまくいった。しかし、そのどれも実感が伴わず、それゆえに支離滅裂な感じがして、私という人格を軸とした像を形成しないのだ。

 おそらく私は今、混乱しているだけなのだ。言語の運用もつつがなくできているし、断片的ながら記憶も残っている。辛抱強く待てば、この部屋にいる理由も含めて全て思い出すに違いない。

 私は頭の後ろで腕を組み、目を瞑った。


 大仏が苦手だった。恐怖というほどではないが、見上げると身体がこわばり冷や汗をかいた。何かの拍子に倒れてきて押し潰されることを想像し、恐れてしまうのだ。私はそう解釈しつつ、その無機質な目の奥に得体の知れない生命感を感じ取り、怯えていた。この恐怖が根源的で進化上意味があるものなのだとすれば、と私は妄想する。我々人類はその歴史上で、巨大な存在に圧倒される経験をしてきているのかもしれない。

 今眼前に迫るこの無骨で巨大な手のように——。


 暗い部屋の中に引き戻されて、私はしばらく周囲を警戒した。汗をかいていた。私は次第に緊張を解き、呼吸を落ち着かせた。落ち着いてくると、途端に喉の渇きが際立った。私は耳ざとく水音を察知した。ぴちゃり、と遠くの方から聞こえてきた。

 立ち上がると眩暈がしたので、音の方角へ這って進んでいった。その姿勢でちょうど頭の位置に、壁からチューブが伸びていて、そこから落ちる雫が床に水溜まりをつくって音を立てているようだった。

 雫を手に溜めて、匂いを嗅いだ。よくわからないが芳醇な香りがした。少し嘗めてみると、これもまた未知の味覚で、しかし脳が痺れるほど美味しい。

 私は両手に溜めては飲み、溜めては飲んだ。飲み下すたびに五臓六腑に多幸感が駆け巡った。駆け抜けて我に返ると、途端に心が芯から冷えるようで、身体が震えた。飲み下してから再び溜めるまでの時間が、苦痛で仕方なくなっていった。そうしてとうとう、壁のチューブにしゃぶりついて直接飲むに至った。

 飲めば飲むほど神経がふやけていくようだった。色々な大切なことが抜け落ちていくような気がした。私はいつまでも飲むことをやめられなかった。飲み味わうこと以外には何も考えられなかった。思考の輪郭がぼやけていって、過去と未来の概念が消え失せた。

 壁のチューブはよく伸びたので、くわえたまま寝っ転がって飲んだ。仰向けで飲みながら、部屋に響き渡る深い深い低音を聴いていた。

 音には独特のリズムと、うねるような旋律があった。深海の古代魚が尾ひれをはためかせつつひそやかに囁くような、荘厳で静かな音だった。

 いつから部屋に響いていたのかはわからない。ずっと寄り添って存在していたような懐かしさがあった。重厚な一音一音が胸の奥にずんと染み入る。私はその音に身を委ね、意識を重ねていった。

 たまに壁の向こう側から、部屋に響く音と似たリズムと旋律が複数聞こえた。私はよく聞こえる位置を探って、耳を壁に押しつけた。一音も聴き漏らすまいと貪るように意識を向けた。

 重奏の波をなぞっていると、徐々に音のパターンが予想できるようになってきた。予想通りの音は身体にしっくりきて、幸福感をもたらした。するとさらに音が聴きたくなった。私は音が静まるたびに狂おしい心地に苛まれた。興奮した鼓動がこめかみで大きく脈打った。

 よりよく聞こえる場所を探るために体勢を変えようとして、部屋が狭くなっていることに気づいた。身じろぎするにも苦労するほどにぴったりと部屋が身体に密着していた。私はいらいらした。向こうではきらびやかな重奏が渦を巻いているのに。本当はより曇りない響きのはずなのに。私は壁の向こうで直接聴きたかった。歯痒かった。もどかしくて頭がくらくらした。叫び出しそうだったが、声も出せない状況にあるようだった。気づくと喉の奥まで例の液体で満たされていた。それは相変わらず美味で、脳髄がチカチカした。私は一心不乱に頭を壁に押しつけた。

 音が、味が、鼓動が、めまぐるしく綾を成して私を責め立てる。たまらなく幸せで苦しい。全てから逃げ出したい。全てにしがみついて離れたくない。ますます頭を押しつける力を強めていく。ものすごい反発を感じる。首が折れるかもしれない。しかしそれも構わない。なんとしてもここから抜け出したい。早くあの音の満ちる世界に飛び込みたい。

 壁はぎゅうぎゅうと音をたて、身体は沈んでいった。そうしてついに私は、光を見た。

 私は力の限り叫んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

叫び 天津 @am2ky0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る